第32話 きみを継ぐ者たち Except for me, they were already ……(第二章 完)

 ころころと机の上を転がっていくシャープペンシルの立てる音が、眠気をもよおしていた僕の覚醒を促した。


 寝ぼけまなこのままに時計を手繰たぐり寄せる。短針は二時を示していた。


「二時、か……」


 丑三うしみつ時に差し掛かった世界は暗く、卓上ライトの淡い光だけが僕の部屋を照らしていた。


 机の上には開かれたままの参考書。書きかけのノートの上にはミミズのような文字のなりかけが踊っていた。机の前には顔に腕の跡をつけている僕が座っている。口からは乾いたよだれがはみ出していた。


 どうやら勉強中に眠ってしまったらしい。らしくない集中力に息を吐きつつ、ぐっと伸びをするように背もたれにもたれかかる。


 木々のさざめきが窓を打つ音が聞こえる。強くなってきた風に僕は雨の予感を覚えた。


 疲れる一日だったのは間違いない。エリのデートに付き合わされた一日は、あるいは〝残滓〟と戦うよりもずっと僕の精神を疲弊ひへいさせていた。


 ハッキリとしない意識。ぼうとした目はまだ焦点しょうてんさだまらない。


 机の端に置いていたコーヒーカップを取り、半分ほど残っていた中の液体をひと息に飲み干す。にがい酸味に混じって、底に溜まっていた砂糖の甘ったるい味が口に広がった。疲れた身体に染み渡るその味は、ブラックコーヒーでは決して出さないだろう。


 ——『泣きなよ。泣かないとダメだよ』


 回復した思考がまわって行くにつれ、エリの言葉が脳裡に甦ってくる。


 涙を流す意味を彼女は何と言っただろうか。悲しみを癒すため、あるいは悲しむ心を癒すためだと彼女は言った。


 乾いた目は過去だけを映している。閉ざした瞳からは未来は見えない。


 いったい僕は何をしているんだろう。暗い夜の風に考え続ける。


 ふと、来栖くんに言われたことを思い出す。


 ——『結局、お前はアンリが死んだことがつらいんじゃない。——風戸アンリという道標みちしるべを失ったことが辛いんだ』


 ひどい言葉だとは思ったけれど、いま冷静に受け止めてみると、きっとそれは僕の本質を見事に言い当てた言葉だったのだ。


 風戸アンリという名の翼を失った僕は、何ひとつ自分で決められない子どものように、従順じゅうじゅんな日々を送っている。


 キャリバンに言われるがままに〝残滓〟と戦い続け、〝桜宮〟の名に縛られる形で家に帰り続けている。


 今だって、こうして机に向かっている。行きたくもない大学へ入学するために。父からの言いつけを守るためだけの勉強を。


「……ははっ」


 どうしようもないなと思うと、感情が苦い笑みとなって僕の口から出ていった。


 思考の停止した生活は甘く麻薬のようだ。惰性で過ごす日々は退屈で寒々しい。与えられた役割を演じているに過ぎない。


 目標を失った旅人はやがて死という名の眠りにつくという。ならば意味を失った人生の最期はどこにたどり着くのだろうか。


 僕は考え続ける。


 雨の音が聞こえた。ぽつぽつと闇を焦がすように、また雨は降り始める。


 姿見の前まで移動した僕は、鏡に映った頬をにっと持ち上げてみる。鏡の中の男は死んだような瞳で僕を見ていた。のっぺりとした表情。ほのかな明かりに照らされたその顔には、諦めだけが浮かんでいた。


 いったいこの男の目には世界がどんなふうに映っているのだろうか。


 そう考えて、彼の目が頭に浮かんだ。世界の全てを拒絶するような瞳。似ているのかもしれなかった。


 嫌な想像を振り払いたくて、ベッドへと寝転んだ。目を閉じる。情景がぼんやりとまぶたの裏を染め上げ、過去への想いだけがまた僕を責め立てる。


 ——『ボクはね、幸人ゆきと。君が世界に絶望しているんじゃないかと思ってたんだ。世界に絶望して、世界からもう何も受け取ろうとしないんじゃないかって』


 何もかも見透かされていた。


 彼女のいなくなった世界で、僕は深い絶望と共に生きている。


 ——『わたしのことは忘れて。わたしのために泣いたりしないで。自分のために、精一杯、生きて……』


 忘れられるわけがなかった。


 泣きたかった。


 自分のためになんか、生きられるはずがなかった。


 だって、僕の世界はきみが全てで、きみだけが僕の生きる意味だったんだから。


 滲みそうになる視界を誤魔化すために、枕に顔を突っ込んだ。


 むせかえるような息苦しさの中で、彼らへの苛立ちにも似た憧れが亡霊のように渦巻いていく。


 来栖凛太郎も、エリックも、彼女の妹である杉屋町エリでさえも。


 前を向いて歩いている。


 僕だけがまだ彼女のことを忘れられない。


 僕の世界だけがまだ色彩を思い出すことはなく、荒れ狂ったモノクロームの上を停滞したままだった。


 抜け出す道は未だ見えない。


 あるいは、そんな道はないのかもしれなかった。


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