第35話 月曜日の憂鬱

 月曜日の憂鬱にそそのかされて、学校をサボることにした僕は、すっかり慣れきった雨の音と匂いの中を静かに目的地へと進んでいた。


 いくつかの電車を乗り継いで郊外こうがいへと出る。


 キャリバンの任務に関係なく、自発的に学校をサボるのは半年ぶりだった。


 半年前までの、つまりは風戸アンリがいなくなった後の半年間、僕は真っ白な世界にいた。だれの視線も声も届かない洞窟のような空間でひとり膝を抱えてうずくまっていた。


 その頃の記憶は曖昧あいまいで、もうほとんど思い出せない。


 何を考え、何を食べていたのか。ぽっかりといた記憶の中で思い出せるのは、のどに絡みつくように湿った空気の匂い。深海しんかいよりも冷たい世界の匂いだけだった。


 あれから気の遠くなるような時間を過ごした気がするけれど、実際にはまだ一年しか経っていない。


 たった一年。だれかの心を理解するには短い。だけど世界に失望するには十分じゅうぶんな時間だった。



 墓地ぼちにたどり着いたのは正午しょうごを少し過ぎた頃だった。


 多くの人は墓地や霊園れいえんを前にすると、ひんやりとした冷気を感じるというけれど、僕はむしろ温かさを感じていた。もちろん幽霊を信じる気はないし、スピリチュアルな信仰も持ち合わせてはいない。


 しかし事実として温かさを感じたのだから、やっぱり心の何処どこかでは彼女の存在を意識しているのかもしれなかった。


「……はぁ」


 自分の女々めめしさが嫌になる。父とのこと、〝残滓〟のこと。考えることは山ほどあるはずなのに、結局は彼女のことばかり考えている。


 だけど今は、僕の心を悩ませる存在がもう一つ。


「……それで? きみはどうしてここにいるんだい?」

「いやいやびっくりだよね~。まさか本当にセンパイが来るだなんて♪」


 墓地の入り口である門のそばに傘を差して立っていた少女は、そんなふうにうそぶく。結構な時間を待っていたのだろうか。エリの足もとの地面だけが薄く乾いているように見えた。


「どうして僕が来るってわかった?」

「んーなんとなく? 来るんじゃないかって思ってさ」

「無茶苦茶だよ……来なかったらどうするつもりだったんだい?」

「でもこうしてセンパイと会ってる。ねえ、これって運命だって思わない?」

「……偶々だよ」

「知らないの、センパイ。偶々ってことは、それはもう運命って言うんだよ?」


 いつか聞いたセリフを繰り返す少女は本当にほがらかに笑う。だけど彼女の妹だとわかってから見るその笑顔は、僕には必死で何かを隠している表情に見えた。


「学校はどうしたの?」と僕は言った。「まさかサボったとか言わないよね?」

「えーセンパイがそれを訊くの?」とエリはにやにやと笑って、「自分だってサボってるくせに」

「……まあ、そういう日もあるよね」


 薮をつついてヘビが出てきた状況に、僕は肩をすくめて応じるしかなかった。



 それから僕らは一緒に墓地内に入り、ひとつの墓前ぼぜんへと移動する。風戸アンリの眠るその墓の前に、僕らは横に並んで立つ。


 質素な墓だった。最近はやりだと言う座右ざゆうめいや好きな言葉が刻まれるということもなく、墓石には名前と宗派だけが刻まれていた。個性も何もない墓。そこに、世界を救った少女は眠っている。


 しとしとと降る雨を避けるために傘を持つ僕らの距離はその分だけ離れていた。それでも一メートルは離れていないはずだったけれど、実際の距離はもっと遠くに感じる。変わってしまった距離感。僕だけが感じていたのだろうか。


 軽く掃除をした後、僕らはまず線香をそなえた。エリが持ってきていた線香。もくもくと上がっていく煙に混じって、かぐわしい香りが傘の内部に立ち込める。懐かしい香りだった。


 それからエリは持っていた花を供える。白いスズラン。ほっそりとしたみどりの先で、釣鐘つりがね型の花が白い首をもたげている。


「あまり好ましい花じゃないよ」と僕は言った。「毒のある花だからね」

「知ってるよ。でもお姉ちゃんが好きだったから」

「……」


 僕の沈黙を非難の沈黙と勘違いしたのか、振り返ったエリは肩をすくめて言った。


「大丈夫だよ。ちゃんと持って帰るから」


 すれ違いの連続。思っているだけでは考えは伝わらない。


「上手く行かないものだね……」

「なにが?」


 思わず溢れた言葉に、両手を合わせていたエリが反応する。僕は誤魔化そうと言葉を絞り出した。


「なんでもないよ。ただ僕も何か花を持ってこれば良かったなって思っただけさ」


 だけど苦しい言い訳に、誤魔化されてくれなかったエリは呟いた。


「泣いてみる? 何かが変わるかもしれないよ?」


 僕はエリを見る。昨日のように悲しい表情をしているのかと思ったけれど、エリはじっと前を見て祈り続けていた。


 僕は視線を墓石に戻して、


「……ずっと泣いてるよ。心でね」


 迂闊うかつだった。息を呑む音に僕は顔をしかめたくなる。


 弱気を見せてしまった。何もかも月曜日のせいだ。月曜日の憂鬱が僕を愚か者にしていた。


「センパイは……」

 

 しかしエリは言いかけた言葉を呑み込むと、自らの頬を打つ。そうして僕に墓前を譲りながら、


「はい、センパイの番だよ」

「……うん」


 傘を差しながら僕は墓前に立つ。墓石に刻まれた彼女の名前をぼんやりと眺めた。


 だけどいくら墓を見つめても、そこに彼女はいない。ただ石があるだけだ。普段は意識すらしない宗派で飾って仰々しく見せているだけの石が。


 僕は墓参りが好きじゃない。母が死んだ時、誰かが言っていた。『お墓にはね、魂が宿っているの。だからお祈りをすればちゃんと相手に伝わるんだよ』と。だけどそんなものは嘘っぱちだった。


 もしも本当にお墓に魂があるのなら、一生懸命訴える子どものことを悲しませるようなことはしなかったはずだ。幽霊でもなんでも良いから僕の前に現れてくれていたはずだ。


 だけど母さんは一度として僕の前には現れなかった。だからお墓に魂があるはずがない。魂のないお墓にむかって手を合わせるなんて行為は、ただの自己満足でしかない。


 それなのに、僕は何をしにここに来たんだろう。何が僕の足をここに運ばせたんだろう。


 雨にも負けずに立ち上がり続ける線香の煙が匂いを伴って辺りを満たしている。母さんが死んでから幾度も聞いた懐かしい香り。大嫌いな香りだった。


 ふと気がつくと、場違いなメロディが耳を揺らしていた。雨の音に混じって聞こえるのは、オルゴールの音だった。


 振り返ると、小さな箱を手に持ったエリが笑いかけてくる。


「怖い顔してるよ?」

「……別に、いつもこんな顔だよ」

「あはは、そうかもね♪」


 エリはそっと香炉の前にオルゴールを置く。耳に覚えのある旋律が墓地内を響いていった。


「いい音でしょ? お姉ちゃんとわたしが好きな曲なんだよ?」


 微笑むエリに、僕は言った。


「……きみは強いね」

「そう見えるんだ」とエリは笑った。「なら、それはきっと、センパイのおかげだね」


 オルゴールの音が雨に負けてしまったかのように止まった。


 エリは止まってしまったオルゴールを手に取り、もう一度ゼンマイを巻きながら、


「嬉しさでも、悲しみでも。それを共有してくれる人がいるのは心強いことだからね……」

「エリ……」


 何かを言おうとして口を開こうとした。だけどその前に、端末が震える。


 見ると、エリックからの呼び出しだった。僕はエリを見る。どうやらエリにも届いていたらしく、不満そうな顔で彼女の端末をみていた。


「……行こうか」

「ごめん。先に行ってて、センパイ。あたしはもう少しお姉ちゃんに話したいことがあるから」

「………わかった。でも、なるべく手短にね」

「うん、わかってる。ありがと」


 そうして僕は墓地を後にする。


 鼻腔をくすぐる香りは落ち葉の匂いへと変わり、オルゴールの音は木々のさざめきへと変わった。


 冷え切った風が強く吹くなかを、僕は基地へと急いだ。

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