第36話 兆し

『——もしかすると、これはきざしなのかもしれない』


 基地にたどり着くと、エリックは開口一番に告げてくる。


「いきなりどうしたの、エリック?」

『おかしいと思わないかい?』

「だから、何が?」

『雨だよ。いくらなんでも続き過ぎている』


 雨。


 もう降り始めて何日が経っただろうか。幾日いくにちかの例外を除いて、十月に入ってからは基本的に雨だ。もう二週間にもなる。


 秋雨あきさめ前線の停滞が原因だとは言われているけれど、一部では既に異常気象だ何だのと騒がれ始めている。


 僕も同意見で、最近の雨の多さにはうんざりしていたから、エリックの主張に反論する気はなく話の続きを待った。


 しかし来栖くんは違ったようで、


「何がおかしいんだよ? 雨が続くなんてのはよくあることだろ」


 ソファで寝転んでいた彼は欠伸あくびを噛み殺しながら言った。彼も彼で学校をサボって寝ていたところを無理やり起こされたらしく、気だるげな表情でエリックのうつる画面を見つめていた。


『そうだね。確かに雨が続くのはそう珍しいことじゃない。こまかな点を無視すれば、一年の半分が雨という場所もある。だけど——』


 エリックは一度言葉を切り、僕らふたりを見る。翡翠ひすい色の瞳が蠱惑こわくげに細められていた。


『——だけど、あるいは兆しなのかもしれない』

「兆し?」と僕は言った。「なんの?」

『ふむ、珍しく察しが悪いじゃないか、幸人ゆきと。いつもの君ならもうわかってるはずなのに……何か悩みでもあるのかい?』


 意地悪く口元を緩ませるエリックに僕は肩をすくめる。


「もったいぶらずに教えてよ、エリック。兆しっていうのは一体どういう意味なんだい?」

『そうだね』と、しかしエリックは思案げに目を閉じて、『……いや、やっぱり続きはエリが来てからにしよう。二度も説明するのは手間だからね』


 呆れたけれど、特に反対する理由もなかったので、僕はそのあいだオレンジジュースを飲みながら来栖くんとエリックに次のことを話した。エリの正体を知ったこと、僕がそれを知っているとエリに打ち明けたこと。ふたりは特に驚くことなく、ようやく口を滑らさないか心配しなくて済むと言って笑った。


 そうして三十分後。エリが姿をあらわすと、エリックは続きを話し始めた。


『——さて、雨が降り続けることをボクが兆しだと言った理由。むろん突拍子もないことじゃない。思いして欲しい。ボクらはおなじような現象に直面したことがあったはずだよ』

「おなじような現象……」

「って、何かあったっけ?」


 僕とエリは顔を見合わせる。互いに思い浮かぶことはないといった様子。しかしそんな中、来栖くんがぽつりと言った。


「〝リヴァイアサン〟」


 僕らの視線が来栖くんへと集中する。


「あの時も周辺では異常気象が続いていたらしいな」

『ふふ、珍しく察しが良いじゃないか、来栖。何か悩みでもあるのかい?』

「ぬかせ。俺だってぼんやりしてるわけじゃねえよ」


 来栖くんはソファから立ち上がると、自動販売機の前で立ち止まり、何らかのボタンを押しながら言葉を続ける。


「俺も詳しいことは知らねえが、報告書によると〝リヴァイアサン〟があらわれるまでの一ヶ月間、シドニーでは雨が降り続いたって話だ。近海では水温が異常な高まりを見せていたらしい。雨の少ないオーストラリアってことを考えると、まあ、異常な話だな」


 エリックは頷いて、


『そう。来栖の言う通り、半年前にオーストラリア近海に顕現けんげんした幻獣型の〝残滓〟――呼称名〝リヴァイアサン〟の出現時にも似たような現象が確認されている。つまり、その地域一帯に雨が何日も降り続けたんだ』


 それからエリックは雨の降るメカニズムを説明してくれた。しかし小難しい理屈はこの場には必要ない。大事なのは、幻獣型の予兆よちょうとして雨が降り続けるのかもしれないということだった。


「待ってよ。じゃあホントに現れるかもしれないってこと? 幻獣型が?」


 疑問の声を発するエリに答えたのは、来栖くんの呆れたような仕草と言葉だった。


「異常気象なんて日常茶飯事だろ。雨が続くたびに幻獣型が現れるってんなら、今ごろ俺たちの世界は〝残滓〟に乗っ取られてるぜ」

「え、じゃあ結局どういうこと? 現れるの? 現れないの?」

「さあな」来栖くんは肩をすくめて、「だがエリックがわざわざ警告してくるんだ。何らかの確証でもあるんじゃねえのか」


 六つの瞳が画面に集まる。画面の中の男は涼やかな微笑をたたえて僕らの視線を受け止めていた。


「どうなんだい、エリック」と僕は言った。「何か別の判断材料があるのかい?」

『いいや、実際のところ確証は何もないよ。ただ、わずかでも可能性があるのなら伝えておくことがボクの仕事だからね』

「あんだよ、鬼が笑う話かよ」


 コップを仰ぐ来栖くん。エリックは乾いた声で笑って、


『むろん笑い話ならそれはそれで構わないさ。重要なのは君たちの心構えを促すことなんだよ。ある日突然ボクらの前に幻獣型の〝残滓〟が現れるか、今日この瞬間にでも出現するかもしれないと心の準備が出来ているか。ボクらの受ける動揺は後者の方がより少なくて済む』


 エリックは続ける。


『それに……ボクらは既に最悪の可能性についての考えに至っているだろう?』

「最悪の可能性……」


 僕らの脳裡に浮かんだのは、あのファミレスでの出来事。僕らを震撼させた〝残滓〟の可能性について。


「……幻獣型以上の、〝残滓〟」


 誰かが呟いた言葉にエリックは頷くと、


『いずれにしろ、もしもこのまま雨が降り続けるようなら覚悟しておいた方がいいかもしれない。近いうちに幻獣型の〝残滓〟が……あるいはそれ以上の存在が出現するかもしれないってことを』


 ひりついた空気が僕らの間を流れていく。重い緊張が湿気に混じって漂い始めた基地内で、僕らはそれぞれ胸の中で考える。


 ひと足早く現実は決断を下したのだろうか。僕らの覚悟を待たずに、世界を終わらせる決断を現実は下したのだろうか。


 もし本当にそうだとしたら、僕は……。


「幻獣型以上の〝残滓〟、かァ……」そんな中、エリがそっと声に出して呟いた。「もし本当にそんな存在が現れたら、あたしたち、どうしたらいいのかな……」


 あの時のエリックの言葉を思い出す。


 ――風戸アンリのいないボクらでは、束になったとしても敵わない。


 状況は依然として変わらない。僕らの前には未だ大馬鹿野郎が現れる気配はない。


「ははっ、んなの決まってんだろ?」


 誰もが沈黙した空間内に、来栖くんのあざけるような声が響く。


「机の陰で震えて奇跡を待つか。救世主が現れるのをひざまずいて祈るか。玉砕ぎょくさい覚悟で特攻するか。あるいは――」


 しかし来栖くんは一転して真剣な目を浮かべると、エリを指さして、


「——お前が倒すか、だ」

「え……」


 呆気に取られているエリ。僕は眉をひそめて、


「何言ってるんだ来栖くん。エリには無理だよ」

「俺はエリに言ってるんだ、幸人」


 僕を一蹴いっしゅうし、来栖くんは真面目な顔でエリと向き合う。


「なりたいんだろ? 風戸アンリを、お前の姉貴を超える魔法使いに」

「あ、あたしは……」


 エリの瞳が不安げに動く。すがるように僕を見た。僕はただ動向を見守るしかできなかった。


 来栖くんは言った。


「俺はな、エリ……他の誰かの可能性に期待するよりも、お前のことを信じる。お前なら、アイツを超える魔法使いになって、俺たちみんなを救ってくれる。俺はそう信じてる」

「……凛、ちゃん」


 息を呑むエリ。僕は目を伏せた。


 ……僕だって、信じていないわけじゃない。この前の訓練の様子を思い出すまでもなく、エリの潜在能力が高いことは明らかだ。彼女にだって届きるとすら思う。


 だけどそれはあくまでもこのまま成長していけばの話だ。


「……今のエリでは、幻獣型にだって勝てはしないよ」

「センパイ……」


 床にこぼすように呟いた僕。小さな声にそっと視線を向けると、辛そうに唇を噛み締めるエリの姿があった。力のなさを嘆く少女の姿が、記憶の中の誰かの姿と合わせ鏡のように重なった。


 いつだって、僕らは力を求めている。大切な存在を失わないために。あるいは憧れの存在に並びたいがために。


 しかし現実は僕らの成長を待ってはくれない。


 決断を促す影が、気がつくと、いつの間にか背後に迫っている死のように、ゆっくりと僕らの側にも忍び寄っていた。

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