第37話 忘れるなよ
昼休み、僕は雨に打たれたい気分になって、傘も差さずに屋上に出た。それからもう十分が経つ。身体に張り付いた制服が気持ち悪い。至るところがびしょ濡れだった。
それでも僕は屋上にとどまり続ける。雨が地面を打つ波紋を見るともなしに眺めながら、頭を巡っていくのは昨日の出来事。彼女の夢に始まり、エリとの墓参りがあって、最後にもたらされたのは最悪と言ってもいい可能性。
事態は動き始めている。
これから先、僕はどうすればいいのだろう。何もわからないままに時間だけが過ぎていく。
雨に濡れれば、少しは考えも纏まるかとも思ったけれど、もちろんそんなことはなく、いたずらに身体を
もう戻ろう。いつまでもここに居たってしょうがない。
そう思った時だった。背後から扉の開く音が聞こえてきたのは。
「——そんなとこにいたら風邪引くぜ?」
聞こえてきた声に、僕は振り返ることなく前を見続ける。声の主が誰なのかはすぐにわかった。
「ま、お前が好きでそうしてるってんなら止めやしねえけどな」
気配が屋上を移動するのに合わせて僕は口を開く。
「……きみはいつも嫌なタイミングで僕のところに来るね。もしかして、狙ってるの?」
隠し切ることのできないトゲが含まれた言葉に、
「言ったろ? 俺はお前を気に入ってんだ。お前の考えくらい、手に取るようにわかるさ」
「……初めて知ったよ。気に入っている相手の考えが読めるだなんて。凄いね、まるで魔法使いだ」
「まあな。これからは大魔道士クルスとでも呼んでくれや。魔法使いはもう別の意味で使われてるからな」
呆れた視線を横に向けると、来栖くんはしたり顔で立っていた。
しばらく僕らは雨に打たれながら黙ってお互いを見つめていた。銃を忘れたことを悟らせないようにするガンマンのように、僕らは目で相手を牽制しあっていた。
しかしそれも長くは続かない。
「……大変なことになりそうだね」
「〝残滓〟のことか?」
我慢できずに言葉を発した僕に、来栖くんは肩をすくめる。
「今更だろ。可能性は示唆されていたんだ。夢物語だったのが現実的にあり得そうな話になっただけでしかねえ。まあ、思ったよりも早かったが、それだってよく言うだろ? 事実は小説よりも奇なりってさ」
「……本当に勝てると思ってるのかい?」
「さあな」
「さあなって……エリを信じてるんじゃないの?」
「信じてるさ。でも、信じるだけで全てが上手く行くってんなら、アイツが死ぬことはなかった」
真っ直ぐに僕を見る来栖くん。曇天の空から落ちてくる雨粒が彼の赤く燃えるような髪を撫で付けているのが、僕にはまるで地獄で涙を受け止める
ふいに来栖くんは表情を緩ませて言った。
「結局、アイツの言う通りになったよな」
意味が掴めず眉をひそめる僕に来栖くんは笑いかけてくる。
「覚えてねえか? ほら、いつかアイツが言ってただろ。お前が俺よりも強くなるって。で、俺はそんなアイツのことを
「……忘れたよ、そんな昔のこと」
「ははっ、嘘つけよ。アイツとの思い出を、お前が忘れるわけねえもんな」
僕は唇を噛み締める。わかったような口を利く来栖くんに理不尽な怒りが込み上げてくる。
「……そんなことないよ」
必死で感情を抑えながら僕は言った。雨の冷たさが僕の言葉を後押ししてくれた。
「……薄れていくんだ。彼女と過ごした時間も、彼女と交わした言葉も。永遠に記憶として残っていくものだと思っていた全てが、たった一年で思い出せなくなる。怖いよ。いつか全部忘れてしまうんじゃないかって」
もう母と過ごした記憶をほとんど覚えていないように。彼女との思い出の全てを忘れてしまう日が来るのかと思うと、朝が来るのが怖かった。
目を閉じると、まぶたに映るのは茜色の空。世界の優しさに満ちた空の下で笑っている彼女。だけどふと目を開けると、見えるのは暗く淀んだ雲だけで、色彩の失われた世界の中では、僕の心を救ってくれるものは何もなかった。
限界だった。いや、もうとっくの昔に限界を迎えていたのを、誤魔化していただけに過ぎない。
僕は来栖くんの目を見つめて笑った。もう会うことのない友達に向ける最後の笑みのように。
「……辞めることにするよ」
告げた言葉はあっけなく僕の口から飛び出ていった。今まで
来栖くんからの返答を待つ間、僕はさまざまな可能性を思い描いた。
しかし来栖くんは、ほんの少しだけ悲しそうな顔をして言った。
「そうか……寂しくなるな」
「止めないんだね……」
「さっき言ったろ? お前が本気で止めてほしいってんなら止めてやるよ」
でもそうじゃねえんだろ? と来栖くんは言った。お前が悩んだ上で出した答えなんだろ、と。
曇りない彼の視線に耐え切れず、僕はまた空を見る。黒い海のように曇り続ける空。いったい何度この空を仰ぎ見ただろうか。もう数え切れないくらいに眺めたというのに、一度だって答えてはくれない。
あるいはこの空が本当に何らかの兆しだとして、今後現れるであろう〝残滓〟を倒すことができたのなら、何か答えてくれるのだろうか。わからない。いずれにしろ、僕はもう限界だった。
「……一度は頑張ってみようと思ったんだ。でも、やっぱりダメだった」
胸に溜まっていた感情がこぼれていく。僕でさえ知らなかった想いが、雨よりも強く屋上に降り注いでいく。来栖くんは何も答えない。じっと僕の横顔を見ている雰囲気だけが伝わってくる。
「……思えば、あのときもきみは僕が限界だと思っていたときに来てくれたよね。凄いよ、本当に魔法使いみたいだ……」
あのとき、ひとり
——感謝しているんだ。本当に。でも、きっと僕が弱すぎたから。きみやエリのような強さを持てなかったから。きみの選択は間違っていたんだと思ってしまう。放っておいて欲しかったと、勝手な思いを抱いてしまうんだ。
声にならない叫びを胸にしまいながら、僕は言葉をしぼり続ける。
「……今すぐに辞めようってわけじゃないんだ。あと半年弱、高校を卒業するまでは続けるつもりだよ。それまでに引き継ぎを終わらせて、僕はキャリバンから出ていく」
「一応聞くが、裏方としてやっていく気はねえのか?」と来栖くんはそこで初めて口を開いた。「別に〝残滓〟と戦うだけが俺たちの仕事じゃねえ。オペレーターなんかはお前にピッタリだろ?」
僕はゆっくりと首を振る。
「……結局、こんな曖昧な気持ちで復帰するべきじゃなかったんだ。だから軽率な判断できみたちを危険に晒すことになった。今回は幸運にもみんな助かったけれど、でも、そんな奇跡は二度も起こらない。きっといつか僕はきみたちを失って、そしてまた後悔する」
——そうならないために、僕は去るよ。
雨に濡れ続ける僕らの決別を示すように遠い山並みの上で稲妻が光った。音は聞こえなかった。
やがて来栖くんは歯を見せて笑った。
「いちばん綺麗な終わり方は、エリックが言ったように幻獣型か、あるいはそれ以上の〝残滓〟があらわれてソイツを倒しちまうこと、だな」
僕は力なく微笑んだ。
「……現実はいつも僕らを裏切るからね。きっと平凡な終わり方さ」
後任に託して、たまに顔を出したりしながら、
「……じゃあ僕は行くよ」
これ以上来栖くんと話していたくなくて、僕は先に背を向けた。そのまま出口へと歩いていく。
「なあ、
ドアノブに手をかけると同時に声がかけられる。立ち止まった僕に、来栖くんは言った。
「——忘れるなよ、人はひとりじゃ生きられないんだぜ?」
僕はそっと呟いた。
……そんなこと、僕がいちばん良くわかってるよ。
雨がより強くコンクリートを叩き始めた。屋上に吹く風は激しさを増していく。風戸アンリのいない世界の冷たさに、僕はもう耐えられそうになかった。
「……やっぱわかってねえよ、お前は何も」
最後に寂しそうな声音で呟かれた来栖くんの言葉は、僕の胸に響くことはなく、風に飲み込まれるようにして消えていった。
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