第38話 心が折れた人

 さすがに濡れた身体で授業を受け続けるわけにもいかなかったから、午後の授業は自主休校とし、一度家に帰ることにした。


 幸い稲光いなびかりが見えたのはあの一度だけで、冷たい風が吹きすさ雨空の下を僕は家へと急いだ。


 傘は差さなかった。もうすっかり雨に濡れていたから差す意味もなかったし、ずぶ濡れの人間が傘を差して歩く姿は好奇の目で見られるのは確実だったから。傘を忘れたドジな高校生と見られた方が遥かにマシだった。


 びしょ濡れになって帰ってきた僕にはやしは少しだけ戸惑っていたようだったけれど、すぐに黙ってタオルをとってきて渡してくれた。


「……どうして濡れて帰ったのかは訊かないの?」


 僕がそう言うと、林はたおやかな微笑を浮かべて、


わたくしども執事にとって大切なことは幸人さまのお身体でございます。なれば如何なる理由があろうとも、一刻も早くお身体をお休めいただくのが務めでございましょう」

「……ありがとう」


 まったくよくできた執事だった。僕は林の心遣いに感謝し、お風呂に入ることにした。


 長い入浴を終えた後、温かいミルクを差し出してくれた林に僕は父の居場所について訊ねた。


「旦那様は外出中でございます。お帰りは夜になられるかと」

「……そう、相変わらず忙しいんだね」


 呟いた声音こわねとは裏腹に、これ以上気持ちを沈めさせるような真似はしたくなかった僕はほっと安堵した。


 自室に戻るとすぐに端末が震えた。またエリックからの連絡かと思ったけれど、珍しいことに、朱音さんからの着信だった。


『——辞めるそうじゃない?』


 通話ボタンを押すと朱音さんの軽快な声が端末から響いた。


「……耳が早いですね。来栖くんから聞いたんですか?」

『まあね。それより本気なの?』

「……ええ、本気です。高校を卒業したら僕はキャリバンを辞めます」

『そう……』


 呟いて、朱音さんは黙ってしまった。何事かを考え込んでいるような気配が電話越しから伝わってくる。僕は時折聞こえてくる息遣いを耳にしながら朱音さんの言葉を待った。


『——ねえ、いまどこにいるの?』と、やがて朱音さんは言った。『学校?』

いえです」

『そう。なら基地に来て』

「今から?」僕は窓の外を見た。依然として雨は強く世界を叩いていた。「明日にしてくれませんか? 正直今日はもう外に出たくないです」

『ダメ。すぐに来なさい。待ってるから』

「あ、ちょっと——」


 そうして横暴な姉は有無を言わさずに通話を終了させた。僕はしばらく無口になった端末を見つめていたけれど、うんともすんとも言わない状況にため息をついて部屋を後にした。


 林は何も訊かずに送り出してくれた。渡された傘を差して雨の降る道を歩いていく。いつもよりほんの少し大きめの傘に林の優しさを感じた。


 基地に着き、医務室に行くと、朱音さんはいつもと変わらない表情で僕を迎えた。


「思ったよりも早かったじゃない」

「……遅れたら何されるかわかったものじゃないですからね」


 肩をすくめる僕に朱音さんは笑って、それから熱いコーヒーを淹れてくれた。僕はひと口飲んで、あまりの苦さに顔をしかめる。


「どうしてまたブラックなんですか……」

「言ったでしょ? 大人はブラックコーヒーを飲むものだって。あなたを大人と認めてるのよ」


 朱音さんは悪戯っぽく微笑むと、自分の分のコーヒーを注ぎながら言った。


「さ、聴いてあげるから話しなさい。どういう経緯けいいで辞めると決断したの?」

「……別に大した理由じゃないですけどね」


 苦いコーヒーを飲みながら語る僕の言葉を、朱音さんは時折ゆったりとコーヒーカップを仰ぎながら聴いていた。


 全てを話し終えた後、締めくくりに僕は言った。


「……それで、朱音さんは僕を止めるために呼んだんですか?」


 しかし朱音さんは首を振って、


「別に止めたりはしないわ。だって今までにもたくさん見てきたもの。——心が折れた人を」

「……心が折れた人、ですか」


 手厳しい言葉だった。でも、確かにそうに違いなかった。エリや来栖くんを失わないためだと口では言いながら、結局のところ、僕がキャリバンを辞めるいちばんの理由は心が折れてしまったから。彼女のいない世界に耐えられなくなってしまったからだった。


 俯いた僕に朱音さんは言った。


「勘違いしないで。別に責めているわけじゃないわ。もちろんさげすんでいるわけでもね。頑張ってきたけれど、もう歩けなくなった。それだけのことでしょ?」


 僕だけが特別なわけじゃない。そう言われている気がした。


「……じゃあどうして呼んだんですか?」と、僕は叫ぶように呟いた。「僕の辞める理由を聞いて、そんなことを言うくらいなら明日だって、明後日だってよかった。それなのに、どうして今日、こんな雨の中呼び出したんですか?」


 医務室の中を雨の音が強く反響していた。薬品の匂いに混じって、ひどく不愉快な湿気が鼻をつく。八つ当たりのような苛立ちをぶつける僕に、朱音さんは柔らかな口調で言った。


「あなたに話しておきたいことがあってね」

「……話しておきたいこと?」


 いぶかしむ視線を送る僕を朱音さんはじっと見つめてくる。いつもの飄々ひょうひょうとした表情ではなく、眉をくもらせて、瞳は逡巡するように揺れていた。まるでしたしかった従兄弟が事故で亡くなったことを告げようとする母親のようだと僕は思った。


「私に妹がいることは知ってるかしら?」と、朱音さんは言った。

「……いえ、初耳です」

「いるのよ。十歳も下なんだけどね」


 そう言って、朱音さんは視線をコーヒーカップに落とすと、両手で包み込むように持った。まだ熱が残るその場所からぬくもりを得たいと願っているかのような動きだった。そのままゆっくりとまばたきをした後、朱音さんは僕に視線を戻して言った。


「この話、長くなるかもだけど、いい?」


 僕が頷くと朱音さんは語り始めた。本当に長い話だった。合間合間にコーヒーで喉を潤しながら話す朱音さんの言葉に僕は聴き入った。

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