第39話 姉として
「あなたには兄弟がいないからわからないかもしれないけれど」
と、そんな前置きから朱音さんの話は始まった。
「年の離れた妹ってね、もう本当に可愛いのよ。とりわけ三歳くらいの頃は天使と一緒なの。わかるかしら? 両親が共働きで忙しかったから私が面倒を見てたってこともあるんだけれど、とても懐いてくれて、私の後をいつも『おねえたぁん』とか舌足らずな声を出しながらとことこと付いてくるのね。あー可愛かったな……。って、もちろん今も可愛いんだけどね。ちょっと生意気になったけれど、それも背伸びしてますって感じがして良いと思うわけ。
……ああ、ごめんなさい。別に妹が天使だというのは本筋とはあまり関係がなかったわね。ごほんっ、話を進めましょう。
そうね、いま重要なのは、妹がいわゆる神童と呼ばれる存在だったってこと。神童ってわかる? そう、天才ってことよ。
大人たちはこぞって期待したわ。この子がいれば未来は明るい、この子がいれば世界に希望を持てるってね。……だけど、人間って早熟な子と晩成型の子がいるから、子どもの頃に
……ほら、昔からよく言うでしょ? 『十で神童、十五で才子、二十過ぎれば只の人』って。もちろん彼女——風戸アンリのように神童のまま成長する人もいるわ。
……でも、残念ながら妹はそうじゃなかった。大きくなるにつれて上手くいかないことが増えていって、ライバルと
ここまでを
僕の内心の動揺をよそに、朱音さんはタバコに火を
吐き出した煙にまみれながら朱音さんは話を続ける。
「……でもね、本当はもっと前から限界だったんじゃないかって思うの。いま思い返してみると、あの頃の妹はいつも無理をしていた。周囲から期待される理想の自分と現実の自分とのギャップに苛立って、明らかにあの子は限界を超えて頑張ってた。そのことにもっと早く気づいてあげられていたらと思うのは傲慢かもしれないけれど、それでもやっぱり気づいてあげたかったと思う。
……ねえ、私思うんだけれど、心が折れる瞬間ってね、多分、劇的な事態があるわけじゃないのよ。どうしても越えられない壁にぶつかったときでも、才能の差に絶望したときでもない。
頑張って頑張って、頑張り続けて、でもある時ふと、もうダメだって思うんじゃないかしら。頑張り続けることに意味を見出せなくなるのね。……妹もね、多分そうだった。
夏の終わりに花火をやったの。私と妹のふたりで。別に特別な日ってわけじゃなかったんだけれど、なんだか花火をしたい気分になってね、私から誘ったのよ。妹も喜んでやろうって言ってくれたから、近くの浜辺でやることにしたのね。
手持ち花火から始まって、ねずみ花火がくるくると回るのを見て、最後にやったのが線香花火。潮風が静かに漂う夜の浜辺で、パチパチと爆ぜる火の玉を見つめていたときに、ふと妹が言ったの。
『……ねえ、お姉ちゃん……、アタシもうダメかもしれない』って。私は言ったわ。『どうしたの急に? 何の話?』って。突然のことに戸惑う私に、妹はじっと線香花火が弾ける様子を見つめながら、『……もうなんだかどうでもよくなっちゃった。これ以上努力することに何の意味があるのかわからなくなっちゃったの。……だから、もうやめてもいいかな……諦めても、いいかな……』。
……波の音に混じって、線香花火の爆ぜる音が白々しく私の耳を揺らしていた。『何もやめることないでしょ?』と私は言った。『せっかくここまで頑張ってきたんだから、もう少し頑張ればいいんじゃない。』ってね。
……ホント、馬鹿だったわ。どうしてそんなことしか言えなかったのかしら。妹が初めて
今でも覚えているわ、沈むように落ちていった火の玉が最後に照らしていた妹の姿を。感情を失った彼女の表情を。……そしてその日を境に妹は頑張ることをやめた。ずっと部屋に閉じこもって、学校にも行かなくなった。扉越しに呼びかけても、拒絶の言葉が返ってくるだけになった』
朱音さんはそこで初めて思い出したかのようにタバコを
朱音さんの話を聴いて心に
「……妹さんは、いま何を?」
最悪の可能性を考慮に入れながら、それでも訊ねた僕に、しかし朱音さんは柔らかく微笑んだ。
「元気でやっているわ。理想の場所とは違うかもしれないけれど、それでも頑張ってる。きっと歯を食い縛りながら」
「……そう、ですか」
強いな、と僕は思った。信じられない強さだ。僕がおなじ立場だったら、きっともう歩けない。理不尽な世界を呪いながら、膝を抱えて閉じこもっているはずだ。
冷たい風が窓を飛び越すように僕の身体を打った気がした。空調の完備された部屋はまろやかな熱気を僕に与えている。午後の
「ねえ」と、しばらくして朱音さんが言った。「どうして私がこの話をしたかわかる?」
僕は首を振って答えた。
「……さあ、僕にはわからないです」
「嘘つき」朱音さんは笑った。「あなたは賢いから、私の
そうして朱音さんはもう一度タバコを喫むと、緩やかに紫煙を吐き出しながら言った。
「あなたの弱点は賢すぎることね。だから、自分ひとりで何でも抱え込もうとする。誰かに頼ることを弱さだと思ってるから、そんなふうに深く自分を傷つけることしかできない」
「……ひとりで抱え込むことの、何が悪いんですか。いいでしょ、別に……誰にも迷惑をかけずにすむんだから」
「そうね、もしもこの世に完璧な人間なんて存在がいるのなら、それでもいいかもしれないわね。……だけどね、完璧な人間なんて、この世にはひとりもいないのよ。みんな弱さを抱えながら生きている。そう見えない人がいるとしたら、きっとその人は弱さを隠すのが
ほのかな微笑を見せながら、二本目のタバコに火をつける朱音さんは、まるで世界を知った家猫のような動作で息をつく。僕はじっと朱音さんの動きを見つめていた。紫煙が僕らの感覚を麻痺させるようにまとわりついていた。
朱音さんは言った。慈しむような瞳を見せながら。
「——
「……」
きっと、朱音さんが口にした言葉は陳腐な言葉だった。もう神話の時代から使い古された言葉。星よりも輝く綺麗事だった。
だけど、僕にはその言葉を跳ね除けることができなかった。
「……どうしたら、前を向けるようになるんだろう」
視線を逸らしながらポツリと呟いた僕に、朱音さんは言った。
「もっと人を信じなさい。エリも、凛太郎も、……あなたのオペレーターも。みんながあなたを待っている。彼女たちに弱さを見せるのが嫌だって言うのなら、私を頼りなさい。私はいつだってここにいる。……私はね、あなたのことを弟だと思ってるの。弟の幸せを祈らない姉はいないし、弟の悩みを馬鹿にするような姉もいない。ねえ、そうでしょ、ユキト?」
最後にそう言って、朱音さんは恥ずかしそうに微笑んだ。それは大人というよりも少女のような笑みだった。家族だけに見せる子どもの頃のあどけなさを残したはにかみだった。
雨が窓を打っていた。風が木々を揺らしている。僕の心だけが時間を失くしてしまったかのように止まっていた。
「……そうだわ。あなたに渡したいものがあるんだった。待ってて、持ってくるから」
本当に恥ずかしくなったのだろうか。朱音さんは乱暴にタバコをもみ消すと、早口にそう言って席を立った。足早に医務室を出ていく。
「……」
ひとり残された僕は窓を流れる雨を見つめ続けた。雫がさめざめとこぼれ落ちていく。部屋の
僕はまだ子どもだった。早く大人になりたいと願う子どもに過ぎなかった。
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