第40話 いつかじゃなくて

 もしも世界から雨がなくなったら……なんて、そんなことを考えてみることがある。


 利点はいっぱいだ。突然の夕立に遭う心配をしなくてもいいし、憂鬱の腕に引き摺り込まれることもない。


 耳をすませば、わずらわしい天気が世界から消え去ることを望む声が多く聞こえてくる気がする。


 ……でも、きっと僕が知らないだけで雨にも利点はたくさんあるのだ。むろん雨がなければ世界が滅ぶだろうということは僕だって知っている。干上がった大地を想像するまでもなく、僕らの生活は雨無しで成り立つことはない。


 しかしそんな大局的な見方じゃなくても、例えば雨の音が心を落ち着かせてくれるとか、雨の流れる様子に詩才が刺激されるとか、個人が受け取る情緒は様々で、何かを否定するということは別の何かを否定するということなのだ。


 だから、それはマラソン大会を前にして雨を願い続けることと何ら変わらない。空想を現実にするためには覚悟が必要だ。時間を捧げる覚悟、何かを犠牲にする覚悟。天秤の傾きに責任を負える者だけが変革を望むことを許される。


 朱音さんと別れたあと、ソファで微睡まどろんでいた僕の耳に聞こえてきたのはピープな電子音。モニターの駆動音に続いて耳を揺らしたのは加工された人間の声。朗らかな秋の朝のようなエリックの声だった。


『もう遅いけど、帰らないのかい?』

「……雨が止んだら帰るよ」


 ソファに身をうずめながら、ぼんやりとした頭で答えると、エリックが微笑む気配が伝わってくる。


『なら、泊まる準備をした方が良いね。今日はひどい雨だ。いや、今日も、と言った方が正しいかな。いずれにしろ、雨が止むことはないよ』

「……いつかは止むさ。でなければ、世界は二度目の洪水を経験するだけだよ」


 言いながら、僕は上体を起こし、モニターに目を向ける。不安定な感情で見るその機械的な笑みは、いたずらに僕を苛立せるだけだった。


「どうせきみも知っているんだろ?」


 主語を欠いた言葉に、けれどエリックは飄々と答える。


『君が辞めるという話なら耳に入ってきたよ。ずいぶん急な話で驚いたけどね』

「……きみも何か僕に言いたいことがあってきたのかい?」

『心配しなくても、ボクはキャリバンの規則に従うだけさ。来る者は拒まず、去る者は追わず。……もっとも、君との約束が叶いそうにないことは残念だけどね』

「約束?」と僕は少しだけ考えて、「……ああ、そういえば前に言ってたね。好感度がどうとかって……ははっ、ならこれで地の底まで落ちたってわけだ。何しろみんなを見捨てて逃げるわけだから」


 乾いた声をあげて僕は深くソファに身を預ける。セピア色に染まったソファから受ける触感が逃げ場のない現実の冷たさを強く主張するかのように湿っていた。八月の暑さが懐かしかった。


『君が辞めること、エリにはもう伝えたのかい?』

「……僕が言わなくても、きっと来栖くんがもう伝えてるよ」

『ふむ。もしも本気でそう思ってるんだとしたら、それこそ君への好感度は地獄まで落ちるんだけどね』

「……」


 口を閉ざした僕を見て、エリックは静かに首を振る。


『——来栖は伝えないよ。告げられなかったつらさを、アイツは誰よりも知っているから』


 微笑みを崩さないエリック。眉間みけんを曇らせ続ける僕。固着した沈黙が月のない夜のように僕らを覆い始めた。雨の音が鮮明に響き、星のような輝きで大地を照らそうと懸命に動いていた。


「……どうしたら」


 そんな空間で、僕は呟いた。


「……どうしたら、きみや来栖くんのような強さを持てるんだい?」

『そうだね、君のいう強さが何なのかはわからないけど』と、エリックは星を探すように言った。『もしも誰か親しい人の死を乗り越えられることを強さだというのなら、難しいね……ボクたちは幼い頃からこの場所にいるから。自然と達観してしまったんだよ。死がいつかじゃなくて、明日あした明後日あさって……身近にあるものなんだということを強制的にわからされてきた。そんな世界では、誰かの死を嘆き悲しむことを許してはくれなかった。明日は我が身だからね』

「……」


 ただ運命を嘆き続けただけの僕とは比較にもならない過酷な生活。それでも現実を生きてきた彼らの強さは、きっと並大抵なことでは崩れない。


 魔物との戦い、〝残滓〟との戦いを経て、少しは近づけた気がしたけれど、たった二年の歳月で埋められるほど彼らの人生が優しくはなかったということだ。


 慣れ親しんだ匂いが僕の身体を蛇のようにまとわりついていく。悔恨かいこんと名付けられたその匂いは、どこまでも深い闇へと僕を追い立てる。


『……ボクも、昔は魔法使いだったんだよ』


 ふと、過ぎ去った春を懐かしむようにエリックが言った。知らず落ちていた顔を上げると、エリックはあいまいな微笑びしょうを浮かべて僕を見ていた。


「……きみの過去を聞くには、好感度が足りないんじゃなかったの?」

『足りないさ。でも、いまの君を見ていたら、何となく話してみたくなったんだ』


 微笑みを保ちながらエリックは続ける。


『これでも一端いっぱしの魔法使いを自負していたんだよ。誰にも負けない自信を持っていたし、才能にあぐらを掻いていた時期もあった。笑っちゃうほどテンプレートで傲慢な子どもだったんだよ。……だけど、そんな子どもも現実を知ることになる。魔王と邂逅したんだ。初めての当たりにした存在を前に、ボクの身体は動かなくなった。それでもはじめは頑張ったんだよ。いつかボクの手で倒してやると息巻いた。……だけど、そのうちに気概を持つことができなくなった。なぜだかわかるかい?』


 僕が首を振るとエリックは言った。あたかも幼子おさなごが母を見るように目を細めながら。


『——風戸アンリがいたからさ。ボクの背後には、いつだって彼女の姿があった。信じられるかい? 子どもの頃は、彼女よりもボクの方が魔法使いとしては上だったんだ。でも本当は、いつも彼女の才能に嫉妬していた。ボクが必死であらがう影で、涼しそうに全てをこなす彼女の強さに憧れた。彼女のようにはなれないと悟った。だからボクはオペレーターになったんだ』


 諦めたから、かな。いつかエリックはそう言って寂しそうに笑っていたのを思い出す。


 同時に、どこかで聞いたことのある話だと僕は思った。


「なんだか似てるね、朱音さんの妹と……」

『……ああ』と、エリックは頷いた。『彼女のことは良く知ってるよ。知りすぎるほどに、ね』


 しかしその答えに僕は違和感を覚える。疑問符が頭を流星りゅうせいのように駆けていく。


「きみは朱音さんの妹と親しいの?」

『……まあ、ボク以上に彼女のことを知っている人はいないと思えるくらいには』

「それは……恋人ってこと?」


 エリックは仄かな暗さを見せて笑った。


『君の想像に任せるよ』


 アバター越しの微笑みは全てを隠すのに打ってつけだった。


『ともあれ、強さに自信を持てないというのなら、大丈夫、君は強いよ。なにより——っと、ごめん。本部からの通信だ。一旦外すよ』


 モニターから光が消えた。僕は補色残像が消えた後も、しばらくモニターから目を逸らすことなく見続けた。


「……」


 夜に招かれた晩餐ばんさんの近づく午後。しばし訪れた静寂の中で、いまだ晴れない世界の音を聞きながら、僕は長く引き延ばされた時間を過ごした。ソファに預けた身体は浮き上がることを知らないブイのように沈んでいく。目を閉じた先には茜色の空が広がっていた。


 世界を祝福する声で歌いながら、鳥のように空をかける自由に憧れた。僕の自由を摘み取った桜宮を憎んだ。心に触れた彼女の温もりを忘れることができないでいる。当たり前のように続いていく世界に失望した。誰の手も借りないで生きていくことが強さだと僕は今も信じている。


 複雑に絡みあった思考が纏まることを拒絶する数式のように散らばっていた。答えの出ない問いが僕を責め立て、白紙の解答用紙だけが積み上がっていく。夏の青さをうらやんだ晩秋ばんしゅうの風が窓辺を溶かすように吹いていった。


 際限なく落ちていこうとする僕の意識を揺り戻したのは、またもやピープな電子音。ピッという不快な音とともにモニターが再度点灯し、優男の姿があわられる。けれどその表情は冴えず、眉を寄せた姿からは事態の深刻さが伝わってくる。


『——グッドニュースだよ、幸人ゆきと』と、予想にたがわず、エリックは皮肉げに左の頬を持ち上げた。『新たな〝残滓〟の兆候を確認したみたいだ。場所は三鷹山みたかやま周辺。週末には顕現する予測だ』

「…………幻獣型かい?」


 たっぷりとをとって言った僕に、エリックは目を閉じながらゆっくりと首を横に振った。


『どうやら世界はまだ迷っているみたいだね。この世界を滅ぼすか、あるいは存続させるか。……ああ、神に翻弄されたプシュケーの気持ちがわかる気がするよ。結局ボクら人間は、いつだって神々の酔狂に振り回されるだけの存在でしかないということさ。まったく、ふざけた話だよ』


 冗談めかした言葉とは裏腹に、しかつめらしく強張った表情を形作ったエリックは、最後に僕を見て、


『——むろん君にも手伝ってもらうよ。辞める決意を固めたとはいえ、君はまだキャリバンの一員だ。ボクたちの仲間なんだ。戦える存在を腐らせておくほど、ボクらの組織は人材が豊富なわけじゃないからさ』

「……もちろん、そのつもりだよ」


 そして僕は基地を出た。


 降り続ける雨。排水が追いつかずに溢れ出た水が道端を流れる光景に、ふと、ノアが見た世界を想像した。洪水の終わり、全てが水に沈んでしまった世界を前に、彼はいったい何を思ったのだろうか。


 未来への希望か、はたまた絶望か。


 少なくとも、何もかもがリセットされた世界では、ひとりの人間が抱く感情はひどくちっぽけな存在に違いなかった。


 おなじように、悲しみが世界から消え去ってくれるのだとしたら、世界を〝残滓〟に明け渡すのも悪くないと、僕の心は考えた。

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