第24話 平等に与えられたもの

 目をけると、見慣れない天井がうつった。


 手のひらから伝わるベッドにいるような感触。何かの薬品らしきツンとした香りが鼻をつく。どうやら医務室にいるらしかった。


「——目が覚めたようね」


 聞こえてきた声に視線を動かすと、白衣はくい羽織はおった妙齢みょうれいの女性がコーヒーカップ片手に僕を見ていた。眼鏡の奥の瞳が理知的りちてきに輝いている。

 

朱音あかねさん……」


 彼女は佐藤さとう朱音。僕らの基地に常駐じょうちゅうする医師だった。


 朱音さんは状態を確認するように僕の身体の上へと視線をすべらせたあと、医者らしい優しく聞こえる声で言った。


「大体の治療は終えているわ。もう起き上がれると思うけれど、どうかしら?」


 僕はベッドから上体じょうたいを起こし、かるく肩や首を動かしてみる。どこも痛むところはなかった。


「大丈夫みたいね」と朱音さんは笑った。「もしまた何か痛んだりしたら言って。ちゃんと治してあげるから」

「……ありがとうございます、朱音さん」


 それから朱音さんは僕のためにコーヒーを淹れてくれた。ベッドに腰掛ける形で受け取った僕はひと口飲んで、あまりのにがさに顔をしかめる。


「……朱音さん、ミルクは?」

「あらら、苦かった? ふふ、ブラックで飲めないなんてやっぱりまだ子どもね」

「……人の味覚によるだけだと思いますけど」


 ミルクを入れるかどうかの違いで大人と子どもをかたるというのなら、そもそもブラックで飲む方が子どもだと僕は思う。


「認識の違いね。私の持つ価値観では大人はブラックコーヒーを飲むものなのよ」

「きっと朱音さんだけのね」


 僕は肩をすくめ、ミルクを入れるためにベッドから立ち上がる。身体はもう完全にえているらしい。歩いてもどこも痛むことはなかった。


 さすがは僕らキャリバンほこる名医。言動げんどうさえ何とかしてくれれば、信頼にりうる人だった。


「それにしても無茶したわね」とミルクを入れ終えて戻った僕に朱音さんは言った。「もう少しで死んでいたわよ?」

「……」

「まあ、あなたの身体なのだから好きにすれば良いとは思うけれどね」


 朱音さんは微笑ほほえむと、コーヒーカップをかたむけた。そうしてほっと息をつくと、いつくしむような眼差まなざしを僕に向けて、


「だけど心配する人はいるわ。あなたがどれだけ自分のことを軽視けいししていようと」

「……」


 基地にいる大人たちのなかで、僕は朱音さんがいちばん苦手にがてだった。悪い人ではない。ただ苦手だというだけ。


 彼女だけがまっすぐに言葉をかけてくるのだ。まるで空想上の姉のように。でも、それが僕には居心地いごこちが悪かった。だから今も、目をそむけてしまう。


「……朱音さん。エリたちは無事?」

「もちろん。エリも、凛太郎りんたろうも、それからあなたたちが助けた三人もね」

「……そう」


 ぶっきらぼうに言葉を返した僕はコーヒーを飲み干して立ち上がる。そうして穏やかな微笑びしょうをたたえ続ける朱音さんにむかってもう一度お礼を言った。


「ありがとう朱音さん。もう身体は大丈夫みたいだから行きます。エリも心配してるだろうから」

「待ちなさい」


 しかし出口へと歩きかけた僕を朱音さんは呼び止める。そして僕の眠っていた隣のベッドをして、


「ここにいるわ」

「え?」


 首をかしげる僕に、朱音さんはベッドの毛布もうふをはぎ取って答えとした。エリの姿があった。


「エリ……」


 眠っているようで、規則的な呼吸を繰り返している。安心すると同時に、不安が頭をもたげてきた。背中の傷は治っているのだろうか?


「大丈夫よ。綺麗さっぱり跡形あとかたもないわ。なんなら確かめてもいいわよ?」

「……バカ言わないでください」


 考えていたことがバレていたのだろう。朱音さんはおどけたように言うと、僕の反応を見て楽しんでいる様子で笑った。しかし一転して複雑な表情を浮かべると、呆れるように腕を組んで言った。


「ま、そもそもこの子の怪我は軽い程度のものなのよ。それなのにいつまでもベッドを占領して。ほんと、ある意味では重症ね」

「どうしてですか?」

「あら、わからないの?」

「……」


 朱音さんの視線に意地いじの悪さを感じた僕は黙った。しかし朱音さんは白衣のポケットから懐中時計かいちゅうどけいを取り出すと、白々しらじらしい動作で時間を確認しながら言った。


「あなたが運び込まれてから十三時間。そのあいだ彼女はずっとあなたの回復をいのっていたわ。さすがに夜明よあまえには眠らせたけれどね」

「……そう、ですか」


 温かい感情が胸をついた。でも、それはきっと妹を見るような感覚に近いのだ。決して他の何物でもない。


 気持ちよさそうな寝顔に、このまま寝かせておこうかとも思ったけれど、僕らには学校がある。あれから十三時間が経っているということは、今はもう朝だ。


 僕はエリを起こすために肩を揺さぶった。


「起きろ、エリ。学校に行く時間だぞ」

「う、う〜ん、あと五分……」

「……なんてベタな」


 思わず笑ってしまう。


 ふと朱音さんの視線を感じて振り返った。


「……なんですか」

「いいえ」と、朱音さんは薄く口元を動かして、「あなたもそんな顔をするようになったのね。ふふ、なんだかちょっと感慨深かんがいぶかいものがあるわ」

「……揶揄からかわないでください」


 しかし朱音さんは懐かしい思い出を話す老人ろうじんのような目をして続ける。


「あなたがここに来てからもうすぐ二年、か……私たちにとっては短くても、やっぱりあなたたちにとってはそんなふうに変われるほど長いものなのね。正直うらやましいわ」

「……朱音さんだって変わってますよ」

「変わらないわよ。私はもう成熟せいじゅくし切ってしまっているから」

「朱音さんまだ二十代でしょ? それなのにさとりをひらいた気になっていたら、孔子こうしに笑われますよ」

「そうかもね」と朱音さんは微笑んだ。「でも私たちにとっての二年は本当に短いものなのよ。それこそ、まばたきをしているうちに過ぎ去ってしまうほどにね」

「わからないな。時間は時間ですよ。人によって変わるものじゃない」


 僕ら人類に与えられているもののなかで、それだけが平等だと信じられるもの。アインシュタインがどれだけ否定しようとも、僕らの時間は引き延ばされたり、ちぢめられたりするものではない。


 だから、もしも時間が短く感じられるのなら、きっとそれは変わろうとしなかったから。


 停滞ていたいのなかで生きることを選んだ自分をなぐさめる言葉に過ぎない。変わることを選ばなかった責任を、時間に押し付けているだけなんだ。


 朱音さんはふっとほおゆるめた。


「あなたは早く大人になりたいのね」

「……なんでそうなるんですか」


 ため息をく僕に、しかし朱音さんはじっと見つめてくる。その何もかもを了解しているような眼差しに、僕は言いようもない苛立いらだちを感じた。


「悩めばいいんじゃない?」と、朱音さんは言う。「悩み、それはあなたたち若人わこうどの特権よ。今は苦しくても、きっといつか笑って思い出せる時が来るわ」

「……」


 身勝手みがってな言葉だと僕は思う。


 いつかなんて知らない。僕らはいまくるしんでいるんだ。


 どんなに想像しても、他人の感情をはかれはしない。


 朱音さんにしても、美術教師にしても、僕らを導こうとする大人たちはみんな僕らの受ける感情を普遍ふへんのものとしてあつかう。人によって違うことを知っているはずなのに。


 だから嫌なんだ。


 精一杯生きようとする時間のなかで、僕らの受ける痛みや苦しみを青春せいしゅんと呼ぶ大人たちが、僕は大嫌いだ。


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