第25話 女心と秋の空

 基地きちを出た僕とエリは学校へ行く道を歩いていた。基地には来栖くるすくんも住んでいるけれど、どうやら先に行ってしまったらしい。


 ぱらぱらと雨が降る通学路を僕らはふたり傘をさして歩いていく。


 少し前を歩くエリとのあいだに会話はない。長靴ながぐついた子どものようにるんるんと先導せんどうしているわけではなくて、目下もっか喧嘩中なのである。


「いい加減かげん機嫌を直してくれないか、エリ?」

「……」


 声を掛けても反応を返さないエリに僕はため息をいて続ける。


「だってしょうがないじゃないか。ああしなければ僕らはみんなやられていたんだから。きみだってわかってるだろ?」

「……」


 背中から伝わってくる拒絶きょぜつかたくなで、僕は何度目かのため息を吐く。


 どうやらエリは僕がひとりで〝残滓ざんし〟と戦い続けたことにおこっているらしかった。


『——センパイのばか!!』


 医務室で目覚めたエリはそう言って僕のほおを打った。じんとした痛みが身体じゅうに広がっていった。


『もう知らないんだからッ……!』


 うるんだ瞳をなびかせて医務室を飛び出していったエリを追いかけもせずに、きつい一発をもらった頬を撫で続ける僕に朱音あかねさんは微笑んで、


『その痛みを忘れないことね。それを忘れなければ、あなたはきっとこの世界を生きていけるわ』

『……余計なお世話ですよ……ほっといてください』

『あらら、男のつ当たりはみっともないわよ? それよりもあなたにはやるべきことがあるんじゃないかしら?』

『……だから、言われなくてもわかってますって』


 朱音さんに視線を向けることなく医務室を出た僕はエリのあとを追いかけた。なんとか追いついたけれど、エリが口をいてくれることはなく、何度声を掛けても無視されるという状況のまま現在に至っている。


 どうしたものかと僕が思案していると、


「…………センパイなら」と、振り返ることなくエリが呟いた。「センパイならひとりで逃げられたはずでしょ?」

「……出来るわけないだろ、そんなこと」


 あのからひとり去るということはエリたちを見捨てることにほかならない。失う覚悟を問われたときには躊躇ためらうことなく頷いたくせに、実際に失いそうになったときには必死で抵抗する自分の矛盾だらけの感情が嫌になる。


 結局僕にはなんの覚悟もさだまっていなかったのだ。誰かを失う覚悟も、この世界を生き抜く覚悟も、何も。


 そんな僕をエリが厳しい口調でとがめてくる。


「そもそもあんなことになったのだってセンパイの落ち度じゃないですか。来栖センパイは止めたのに、センパイが無理やり行くって言うから」


 普段は使わない敬語で言ってくるあたり、相当ご立腹りっぷくのようだ。


「確かにあのときあたしたちが行かなければあの三人は助からなかったかもしれません。でも、だからといってあたしたちが行く必要はなかった。もっと慎重に行動するべきだったんです」

「……でも、エリは何も言わなかったじゃないか。あのとき、僕を止めるような言葉を……」

「聞きましたか? もしもあたしがあのとき何かを言って、センパイはあたしの言葉を聞き入れてくれましたか?」

「それは……」


 聞かなかっただろうと僕は思った。


「……悪かったよ。だけど結局はみんな助かったんだから良いじゃないか」

「結果論で語るほど馬鹿なことはありません。そんなこと、センパイがいちばん良く知ってますよね?」


 にべもないエリの答えに僕は長い息を吐き出して言った。


「……どうしたら許してくれるんだい?」


 返事を期待していなかったけれど、エリはちらりと肩越しに振り返り、俗に言うアヒル口で、上目遣いをして見てくる。


「——デート」

「え?」

「あたしとデートしてくれたら許す」


 僕は呆れた。今までの態度が全てこの結論に導くための緻密な作戦だったのかとさえ疑ってしまう。だから僕は茶化すように言った。


「きみとデートというのは対価として釣り合ってない」

「あーそんなこと言っちゃうんだ?」


 くるりと振り返ったエリが身体を前に出してあざとい声を出す。


「センパイのせいで女の子に傷が残っちゃうところだったんだよ?」

「朱音さんが治してくれたじゃないか」


 しかしエリはゆっくりと首を振って、


「身体はね。でも心は治してくれない」

「……」


 思いのほか低い声音こわね狼狽うろたえる僕をよそに、エリは視線を落とし、うつむいた表情で、


「……死んじゃうと思ったんだから」


 と、ぽつりと言った。


「センパイが、死んじゃうと思ったんだから……」


 同時に、エリの瞳から涙が流れていく。その純粋な感情はどんな言葉よりも僕の胸を刺激した。


「……ごめん」


 ありきたりな言葉はむなしく響くけれど、それでも僕の口からはそんな言葉しか出てこなかった。


 あさの冷たい風が僕を責めるように吹いた。もうすっかり日常になってしまった雨粒あまつぶが僕の身体を打つ。だけど小さな嗚咽おえつをもらす少女の言葉以上に、僕の心を冷たく震えさせるものは何もなかった。


「……デートしてくれなきゃ、絶対、許さないんだから」


 駄々だだをこねるおさなさの陰に、傷ついた少女の姿がかさなった。ゆるやかな夏の日暮ひぐれのようなその姿に、僕はおだやかな懐かしい日々の幻影げんえいを感じた。最低の気分だった。


「……わかった」と僕は言って、肩をすくめる。「降参だよ。今度の休日にデートしよう。これでいいかい?」

「——ホント!? やった!」


 涙さえ演技だったのではないかと疑うほどの喜びっぷりに僕はため息を吐きたくなる。でもよく見なくても目元がれているのがわかったから、僕は静かに首を振ったあと、雨の落ちる曇天どんてんの空を見た。


 いまだ晴れることを知らない空は僕らの感情をかわかしてはくれない。湿しめった空気を取り込んだ風は僕らの心をいたずらに揺らすだけで、温かく寄り添うことを頑なにこばみ続けていた。


「ねえセンパイ」


 まだ鼻声の残る、けれど明るく努めた声でエリが言った。


「あたし行きたいところがあるの。連れて行ってね♪」

「……まったく、調子が良いんだから」


 女心おんなごころと秋の空とは言うけれど、エリの感情は本当にジェットコースターみたいだ。よく笑い、よく泣き、よく怒る。健康少年の標語のように言いあらわせるそんなエリの姿に、しかし僕は幾度いくどとなく救われてきたのだ。絶対に口に出したりはしないけれど、僕が曲がりなりにもこうして生き続けられているのは、彼女の存在が大きかった。


 でも……本当に女心が秋の空とおなじだと言うのなら、あるいは彼女の心もこの空のように、悲しみをいつまでもその中に蓄えているのかもしれなかった。


 そして残念なことに、それが事実だと言うことも僕はもう知ってしまっているのだ。


 嘘つきは泥棒の始まりであるはずのこの世界で、しかし嘘のつかない人間はひとりもいない。誰もが嘘のない世界に憧れるけれど、そんな世界はおとぎ話でも悲惨な結末を迎えることを僕らはみんな理解していた。


 ゆえに僕らは嘘をつく。


 あるいは自分の心を守るために。あるいは誰かを悲しませないために。


 この世界が優しさで包まれていると信じさせるために、僕らはみんな嘘をつくのだ。

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