第23話 慟哭が響き渡る雨空の下で

『——もしも絶対に勝てないなと思う敵と出会った時はね、ユキトくん』


 ふいに彼女の言葉が脳裡のうりよみがえってきた。


『まずは逃げることを考えるの。逃げるのははじなんかじゃない。生きてさえいれば、相手を上回うわまわれるチャンスは必ずやって来るんだから』


 しかし今の状況では逃げ出すわけには行かない。僕が背を向ければ、エリや来栖くるすくんを失うことになる。それは決して許容きょようできることじゃない。


『——だけど』と、記憶のなかの彼女は続けて言った。『もしも絶対に守りたい人がそばにいたら、そしてその人が何らかの理由でその場を動けないとしたら、覚悟を決めなくちゃダメ』

『覚悟って……』と僕は言った。『死ぬ覚悟?』

『違うよ。——絶対に相手を倒す覚悟、だよ!』

『……そんな覚悟を決めたところで実力差は埋まらないんじゃないかい? せいぜい一矢いっしか二矢むくいたあとに、やられるのがオチだよ』

『大丈夫!』と、しかし彼女は自信満々に微笑ほほえんだ。『だってヒーローがしんちから発揮はっきするのは、いつだって誰かを守りたいって思った時なんだから♪』


 ……ああ、まったく。やっぱり彼女は英雄えいゆうなんかじゃない。おもいの力が現実に影響を及ぼすと信じているような、いつか白馬はくばの王子様が現れるのを待っているような夢見る女の子だったんだ。でもあるいは、そんな彼女だからこそ、僕らは夢を見たのかもしれない。


『……僕は逃げると思うね。誰かのために犠牲になれるほど、僕は殊勝しゅしょうな奴じゃないから』

『そうかなァ。案外キミは立ち向かう気がするよ。キミは優しいから』

『……きみは勘違いしている。僕は優しくなんかないし、そもそものはなし、僕に絶対に守りたい人なんていないからさ』

『あれ、わたしは違うの?』

『……きみがピンチにおちいっている状況は想像できないな』

『あはは、そうかもね』と彼女は笑って、『でもね、ユキトくん。いつかキミにも誰かを守りたいと思う時が来ると思う。どんなに強い敵に立ち向かってでも、絶対にその人を守りたいと思えるような時が、ね。それがわたしだったら嬉しいけど、きっとそれはわたしじゃない』


 彼女は一瞬だけ悲しそうに微笑んだ。でも、すぐにまた元の笑顔に戻って、


『覚えておいて、ユキトくん。誰かを守るためにいちばん大切なのは力なんかじゃない。その人をどれだけ守りたいと思っているか、その気持ちだってことを』

『……それでも』と、彼女の言葉をめた僕は言った。『それでも僕はきっと立ち向かうことはしないと思う。だって、そんな都合つごうの良い理由で力が発揮できるのなら、僕らの世界はきっともっと優しくなっているはずなんだ』


 だけど彼女は優しく首を振って言った。


『それはキミがまだ本気で誰かを守りたいと思ったことがないからだよ』

『……そんな日は永遠に来ないと思うけれどね』

『ふふ、知ってる? キミがいま言ったセリフのことを、世間せけんではフラグって言うんだよ?』


 現実の僕は笑って、それから覚悟を決める。でもやっぱり僕には信じられないから、死んでも時間を稼ぐ覚悟を決めた。


 未練みれんはない。どうせいつかは死ぬつもりだったんだ。今日がその日だっただけのこと。


 決意を固めると、身体からだから余計な力が抜けていくのがわかった。だけど全てを抜くわけにはいかない。緊張は少し残っていた方が良い。


 獲物まとう雰囲気が変化したことを敏感びんかんに感じとったのか、〝BPビー・ピー〟がうなる。僕は笑った。


「ははっ、生憎あいにくと猫とのじゃれ合いには慣れてるんだ。僕がきるまで付き合ってもらうよ」


 そして僕たちはにらう。くら雨空あまぞらの下で、あるいはこのままずるずると時間が過ぎていくことをねがったけれど、そうは問屋とんやおろさないようだ。


 てしない対峙たいじの終わりを告げたのは、一本のえだが折れる音だった。


「——!!」

「——くッ!」


 声も発せずに猛然もうぜんと突っ込んできた〝BP〟の攻撃を僕は剣を使って受け流す。重い一撃に体勢たいせいくずれそうになるけれど、魔法で強化された身体は〝BP〟と渡り合えるだけの力はあるようだ。


 だけどそのことに安堵あんどするひまもなく、恐ろしいほどの瞬発力しゅんぱつりょくを持ってがむしゃらな連撃れんげきが叩き込まれる。そのたびに僕はくるしくもなんとかさばいていった。


 反撃はんげきの機会どころか、息つくひまさえ見出みいだせない時間が続く。


 でもかまわない。


 この戦いの勝利条件はただ時間をかせぐこと。負けなければ、それで良い。二十分という時間を稼げれば僕らの勝ちだ。


 むしろこのままはげしいだけの単調たんちょうな攻撃だけが続くのなら、僕としては大助おおだすかりだ。


 しかしいつまでもとらえられないことにごうやしたのか、〝BP〟は一度距離を取り、仕切しきなおすように僕を見た。暮相くれあいひかり始めたひとみがねっとりとからみつく。そして、


「——PYAAA!!」


 しびれるような咆哮ほうこうを発し、〝BP〟は地面をがった! だけど愚直ぐちょくに僕へと跳びかかるのではなく、木から木へと移動を繰り返している。その颯爽さっそうとした様子はまるで忍者にんじゃか、あるいは天狗てんぐだ。平時へいじならいい見せものになっただろうけれど、残念ながら今は戦闘中である。


 目で追うのがやっとの動きに、あせりが冷たいあせとなって僕の背中をれていく。死角しかくからの攻撃に対処たいしょするにはより大きな集中が要求される。ほんの一瞬いっしゅんでも油断ゆだんすれば、容易たやすく僕の身体はかれるだろう。


「くっ——!」


 文字通り、さっきまでとは次元じげんの違う攻撃を紙一重かみひとえで対処していく。出所でどころの見えない動きに神経をすり減らす時間は、まるで退屈な映画を見ているかのようだ。


 それでも時間は過ぎていく。


 〝BP〟の攻撃は思ったよりも単調だ。跳び出てくるタイミングは一定で、リズムをつかんでしまえばいなすのは難しいことじゃない。もちろん簡単なことじゃないけれど、集中さえたもてれば何とかしのぐことはできる。希望が見えてきた。


 しかし——。


「——ぐっ!」


 突如とつじょ身体のキレがなくなった。得物えものにぎる手が、ステップをむ足がどろのように重くなる。わかってる。魔法の効果が切れたのだ。


 おそれていたことが現実となった。そんなすき見逃みのがすような相手ではない。


 かわそうとした。しかしさっきまでと一緒の感覚でけ切れるはずがなかった。


「がはッ——」


 身体じゅうの血液が口から飛び出していった気がした。のように吹き飛ばされた僕は地面を飛び、大木たいぼくみきに身体を打つ。


「……ぐふ」


 たった一撃。理不尽りふじんな力の差にかわいたみが身体をめぐった。起きあがろうと懸命けんめいにもがく。しかしのどからせり上がってくるてつあじの苦しさに、また地面に倒れ込んでしまう。ダメだ、もう身体が動かない。


 僕にはもうせまりくるきばける手段はなかった。


 世界がスローになり、思考は間延まのびする。


 ああ……ここまで、か。


 一体どれくらいの時間を稼げたのだろう。


 エリは無事なのかな? 


 でもきっと大丈夫だ。あとは来栖くんが何とかしてくれる。


 だけど結局、覚悟を決めたところで僕には何もできやしないんだ。


 彼女に会わせる顔がないけれど、もしも。


 もしも本当に死後の世界というものがあるのなら、どうせならやっぱり彼女のいる世界に行きたいなと、僕は最期に思った……。



「——〝ペル・ボルティング〟!!」


 閃光せんこうがほとばしった。遅れて訪れた轟音ごうおんに僕は過ぎ去ったなつを感じた。ヘビに驚くネコのようなき声と共に、〝BP〟が退いていく。


 かみなりが落ちたのだと思った。もしも僕が何らかの信徒しんとであったなら、回心かいしんを決意するような、そんな奇跡的なタイミングで。だけど世界がそんなふうに都合良くできているはずがなかった。


 この理不尽りふじんやさしさでおおわれた世界を変えられるとすれば、誰かの奮闘ふんとうによるものでしかない。


 聞こえたのは、ぬかるんだ地面をけるような足音。それから優しくき起こされる感触。


「——センパイ!!」

「うぅ……え、エリ……?」


 かすむ視界のなかで、エリが泣きそうな顔を浮かべていた。


「……な、なにしてるだ……は、はやくここから離れるんだ……」


 言葉を絞り出す僕に、エリは僕の身体を支えながら、ふるえる、けれど優しくさとすような声でささやいた。


「……大丈夫だよ、センパイ。もう大丈夫だから」


 大丈夫なはずがなかった。おぼろげな耳に聞こえたエリが放ったであろう魔法では、動物型の〝残滓〟を倒すことはできない。時間を稼ぎ切れなかった僕を助けようと詠唱を中断し、放ったであろうことは容易に想像できた。だから体勢を立て直した〝BP〟はすぐにでもまた僕らを仕留しとめようと跳びかかってくるに違いなかったのだ。


 だけど、いつまで経っても追撃ついげきはやってこなかった。


「ど、どうして……」


 戸惑とまどう僕の耳に、聞き慣れた男の声が聞こえてくる。


「たくっエリックの奴……応援を呼んでるんなら知らせとけってんだ。なあ幸人ゆきと?」

来栖くるす、くん……」


 あとから聞いた話だけれど、僕たちが基地を出た後、エリックは僕らのために方々ほうぼうと掛け合ってくれていたらしい。相当そうとう剣幕けんまくで、相当な無茶をやらかしたみたいで、それからしばらくは来栖くんを使つかうことでさを晴らしていた。


 だけどその結果として、何人もの魔法使いと騎士きしたちが今、〝BP〟を取り囲むように立っている。


「良かった、ホントに良かった……!」

「……エリ」


 そんな様子を気にもせずに涙を流し続けるエリ。背中は痛ましいほど赤黒あかぐろまっていた。僕の責任だった。


 やがて戦いは終わった。しかし少女の泣き叫ぶ声が止まることはない。


 少女の乾いた慟哭どうこくが響き渡る雨空の下で、あるいはその日、僕は初めて実感したのかもしれない。


 誰かをうしなうということは、他の誰かを泣かすことになる。どんな馬鹿野郎にだって、なみだを流してくれる人がひとりは存在するという、そんな当たり前の事実を——。

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