第18話 エリック(仮)

 放課後になると、空はまた昨日きのうまでの感情を思い出したみたいにかげっていった。


 まだ雨こそ降り出してはいなかったけれど、それも時間の問題だろう。頭上ずじょうを見ると、山の稜線りょうせんに引っかかるように分厚ぶあつ黒雲こくうんれ込めていた。もうそらあおさはどこにも見えなかった。


 天気予報を信じていた僕は傘を持ってきていなかった。念のためカバンの中も調べてみたけれど、あいにく折りたたみ傘も忘れてしまったらしい。


 雨に濡れるのは嫌だったので、僕は足はやに基地へと向かうことにした。基地にさえ着けばきっと傘のひとつくらいはあるだろう。


 基地には誰もいなかった。来栖くるすくんが先に来ているかと思ったけれど、どうやらまだみたいだ。あるいは僕のことを避けているのかもしれない。エリはきっと寝坊ねぼうだろう。今もまだ教室で眠り続けているに違いないと僕は思った。


 僕は自動販売機の前に立つと、少し悩んでから、コーラのボタンを押した。今日はなんだか炭酸たんさんが飲みたい気分だった。プルタブを起こした時の心地の良い音を感じながら、僕はソファに座ってコーラを飲んだ。


『あれ? 今日は幸人ゆきとだけかい?』


 半分ほど飲み終えたところで画面上にエリックが現れた。ソファにひとりくつろいでいる僕を見て意外そうな声を出している。


「みたいだね」と僕はこたえた。「僕も驚いていたところだよ」

『うーん、昨日〝残滓ざんし〟を倒したことでみんな気が緩んでるのかな。ま、いいけど」

「いいんだ?」

「今のところ、新たな〝残滓〟の兆候ちょうこうは見られないしね』


 それから僕らはふたり静かな時間を過ごした。基本的に僕は無口だし、エリックも口数の多い方ではない。来栖くんやエリが居なければ、僕らのあいだに流れる空気は波紋はもんのない水面みなものようなものだった。


 しかし不思議と居心地の悪い気はしなかった。


 エリックにはそういうところがあった。相手の空気に合わせることができる。だれとだって険悪けんあくにならない。それはオペレーターの才能があるということかもしれないと僕はなんとなく思った。


『——ところで、君はボクの素顔すがおが気になったりしないのかい?』


 一時間ほどが過ぎた頃、唐突とうとつにエリックは言った。


『来栖なんかは暇があるといてくるけど』

「別に、正直どうでもいいと思ってる」

『どうして?』

「エリックがエリックであることに変わりはないからね」


 たとえ中身が十四歳に満たない少女だとしても、あるいは八十七歳を超えたおじいさんだったとしても。僕にとってエリックはエリックだ。モニターに映る存在だけがエリックではない。


『……でもね、幸人。君がエリックと呼んでいる人物は、結局のところ、ボクが演じているキャラクターに過ぎないんだよ。姿も性格も偽物で、本来のボクとはかけ離れているかもしれない。……いや、事実かけ離れているんだ。それでも、君はボクが、ボクであることに変わりないって思うのかい?』


 モニター上の男が真剣な表情を作り出す。エリックと呼ばれるその男は、玉虫色たまむしいろに似たあおい瞳を僕に向けていた。


「変わらないよ」と、少し考えて僕は言った。「少なくとも、エリック。僕が今までにきみと過ごした時間のなかのきみはきみ自身だろ?」

『……どうかな。ボク自身という表現は適切じゃないと思うよ。何度も言うけど、それは本来のボクが演じているボクなんだ。君たちが信頼できるボクを演出するために、君たちが安心して戦えるように、思ってもいないようなことを口にすることもある。いわば嘘で固められた存在なんだよ、ボクは』


 モニターから聞こえるエリックの声はなんだか少し苛立いらだっているようにも、せられた役割をなげいているようにも聞こえた。でもそれは勘違いで、ただノイズが走っているだけかもしれなかった。


「だとしても」と僕は言った。「だとしても一緒だよ。だって、演じているからダメだっていうのならさ、フィクションに影響を受ける人たちはみんなおかしいと言うことになる。あきらかに彼らは本心だけを見せているわけじゃない。彼らがどのような想いでリリックつづっていようと、僕らはリルケを読んでせいについて考え、ラディゲの語る悲恋ひれんに感じ入り、マーシーがかなでるノスタルジーにいしれるんだ。僕らが受けるその全ての感情がいつわりだというのなら、僕らの世界にはもう救いが訪れることはない。壊れた身体は、壊れた心を乗せて、壊れた世界を沈み続けるだけさ」


 もしもこの柱時計はしらどけいがあったのなら、あるいはチクタクととききざむ秒針の音が気になったかもしれない沈黙が僕らのあいだに横たわった。だけど幸いにもここにはそんな時計はなかったから、デジタルが静かに時を進めていた。


『……なんだ、ちゃんと分かってたんだ』


 エリックは意外なほどあっさりと意見をひるがえした。そしてほがらかに見える表情で僕に笑いかけて、


『ボクはね、幸人。君が世界に絶望しているんじゃないかと思ってたんだ。世界に絶望して、世界からもう何も受け取ろうとしないんじゃないかって。風戸かざとアンリを失ってからの君は、いつもつらそうな顔を浮かべていたからね。でも、そんなふうに考えられるのなら心配はいらないみたいだね。きっといつか、世界は君を救ってくれるよ』


 僕は笑った。そんなに顔に出ているのだろうか。仲間たちから心配されるほど、僕のポーカーフェイスは機能を失っていたのだろうか。わからなかった。僕の不安をよそに、「でも幸人はアンリの影響を受け過ぎてるよ。とりわけ音楽に関してのね」と、安心したようにエリックは呟いていた。


 ……だけどエリック、と僕は心のなかで呟いた。きみは重大な勘違いをしているよ。きみの理想にかなう言葉が僕の口から出たとして、一体それが僕の本心だとどうして信じられるんだい? きみが言うように、嘘が集まって出来たこの世界では、だれだって嘘をく。僕らは生まれながらに役者なんだ。様々な役を演じすぎて、本当の自分を見失った役者なんだ。


 しかし僕の孤独こどくが言葉になることはなかった。代わりに、僕はエリックにたずねてみたいことがあって口をひらいた。


「僕からもひとつ、きみにきたいことがあるんだけどいいかな?」

『かまわないよ』と、うなずいたエリックに、僕は言った。

「きみはどうしてオペレーターになったんだい?」

『……』

「オペレーターっていうのは大変な仕事だよね? ましてや僕らキャリバンの場合、常に危険と隣り合わせの仕事だ。きみひとりだけじゃなくて、僕らみんなの命を背負う仕事だ。少なくとも、生半可なまはんかな覚悟で選ぶ仕事じゃない」


 キャリバンのなかには、導くべき魔法使いや騎士を失った自責の念にさいなまれているオペレーターもいると聞く。だからこそ僕は知りたかった。僕らのエリックがどのような思いで僕らとともに戦い続けるのか。僕は知りたいと思った。


『そうだね……』とエリックは言った。さびしそうな声だった。『あきらめたから、かな』

「諦めた?」僕は首をかしげる。「なにを諦めたの?」

『……残念だけど、君はまだそれを聞く資格を持っていないんだ』

「じゃあ、どうしたら教えてくれるの?」

『単純な話さ』と画面上の彼が笑った。もちろんそれは機械によって作られた笑みだった。けれど僕にはそれが様々な感情を乗せた人間が浮かべる笑みに見えた。『ボクの好感度こうかんどを上げればいい』

「好感度」僕は呟いて、その意味する言葉に笑った。「それを上げれば、現実のきみにだってえたりするの?」


 エリックは微笑みを持って答えた。


『そうだね。ボクがオペレーターになった理由。いつか君に会えたときに教えてあげるよ』


 僕は微笑み、それから言った。「その時が来るのを楽しみにしているよ」


 そして僕はソファから立ち上がる。今日はもうだれも来ないだろう。僕は基地を後にすることにした。


 出口まで歩いたところで、ふと思い立って僕はきびすを返した。部屋まで戻った僕は、不思議そうな顔を映し出しているモニターに向かって言った。


「ごめん。傘って置いてあったっけ?」

『残念。マイナスいちポイントだ』


 きびしすぎる判定に苦いみをこぼし、エリックが場所を教えてくれた傘を手に取ると、今度こそ僕は基地を後にした。


 外は静かな雨が降り始めていた。

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