第17話 来栖凛太郎という男

 良く晴れた日の屋上からあおぎみる秋の空は、ガラスばんのように透き通っている感じがして僕は好きだった。今日はところどころヒツジぐもに覆われていたけれど、しかし多少のくもがあっても隙間すきまからのぞ青空あおぞらは変わらない。むしろアクセントになって良いくらいだった。


 最近はずっと雨が降っていたから来ることはなかったけれど、ふさぎ始めた気持ちが僕を動かしたのか、自然と足を運んでいた。


 いつもならだれもいない屋上で、僕はひとり静かな時間を過ごそうとした。しかし今日は先客せんきゃくがいた。


「よ、幸人ゆきと

「……来栖くるすくん」


 その先客は転落防止用に設置された柵に寄りかかりながら僕に笑いかけてきた。


「……珍しいね。……タバコ?」

「馬鹿、んなわけねえだろ。たぶんお前と一緒だよ」

「僕と?」

「ああ、俺もちょっと風に当たりたくてさ。ほら、やるよ」


 そう言って来栖くんが投げよこしてきたのは、購買で売っている焼きそばパンだった。四時限めの終わりまでに売り切れる人気のパン。熾烈しれつな競争に打ち勝った者だけが手にすることのできるパンだった。


「けっこう苦労したんだぜ? それ買ってくんの」

「……だろうね。ありがとう」


 それから僕らは屋上に座り込み、秋の空の下で焼きそばパンを食べた。少し肌寒かったけれど、ヒツジ雲を見ながら食べる焼きそばパンは思っていたよりもずっと美味おいしくて、最後の一口ひとくちを食べ終わるのが名残なごり惜しいくらいだった。


 しかし食事中、僕らのあいだに会話らしい会話はなかった。来栖くんは柵にもたれかかりながら座り続け、時折思い出したかのように焼きそばパンを口に運んでいただけで、僕へと視線を向けることはなかった。じっと風に流される雲の動きを見ているようだった。


 だけど明らかに来栖くんは僕のことを待っていた。僕の行動を予測し、偶然をよそおって屋上まで会いにきたに違いなかった。僕の分の焼きそばパンを用意していたのがその証拠だ。


 なにか伝達事項でもあるのだろうか? 例えば、新たな〝残滓ざんし〟が出現したといったような……。


 いや、それだったらこんな空気になるはずがない。いつもの来栖くんならさらりと用件を話してくるはずだ。無駄な会話を挟みながら、それでも重要な話題はすぐに伝えてくる。それが来栖凛太郎りんたろうという男のつねだった。


 しかし今、来栖くんは依然いぜんとしてビニール袋をもてあそびながら口をつぐみ続けている。カシャカシャとした音が場違いな響きを持って僕の耳を揺らしていた。


 わからない。いったい来栖くんは何のために屋上で待っていたのだろう。


 時間だけが過ぎていく。風だけが僕らのあいだの砂のような沈黙を吹き飛ばそうと懸命に動いていた。


 来栖くんが口をひらいたのは、いい加減にしびれを切らした僕が声を掛けようとする、まさにそのタイミングだった。


「――俺さ、アンリのことが好きだったんだ」

「え……」


 しかしそのあまりにも突然の告白に、僕は自分の耳がおかしくなったのではないかと疑った。メトロノームじみたビニールの音が僕にあるしゅ催眠さいみん効果をもたらしたのではないか、と。


 そんな僕の反応を見て、来栖くんは笑いながらもう一度おなじ言葉を告げてくる。


「俺さ、風戸かざとアンリのことが好きだったんだよ。お前よりずっと前からな」

「……」

「へへ、驚いたか?」

「……いいや」と僕は答えた。「知ってたよ。きみが彼女を好きだってことは、初めて会ったときからずっと」

「はは、そうか。知ってたか」


 当たり前だ。気づかないはずがなかった。でも、今更どうしてそんなことを来栖くんは言うのだろうか。一体なぜ、このタイミングなんだろうか。


「……でも、どうして急に、そんなことを」

「さあな」と風になびく前髪を気にもせずに来栖くんは答えた。「なんとなく言ってみたくなったんだ。ほら、アイツが死んでからもうすぐ一年だろ? ま、だからってわけじゃねえけど、お前にはいつかちゃんと言っておきたいって思ってたんだ」

「そう……」


 にじんだトランペットの音が校舎から聞こえてくる。そのヘタクソな旋律せんりつのなかで僕は言うべき言葉を探していた。しかし僕が適切な答えを見つける前に、


「——なあ幸人」と、来栖くんは話題を変える言葉を口にした。「お前はこの先、どうするつもりなんだ?」

「……この先って、〝残滓〟との戦いのこと?」

「それもあるけどな。ま、つまり、この先の進路についてだ」

「どうだろうね。今はまだ何も考えてないよ」

「いやそこは考えとけよ。俺たちもうすぐ卒業だぜ?」

「僕にとってそれは何の意味も持たない言葉だよ、来栖くん」


 桜宮に生きるということはレールの上を走るということだ。僕に選択の余地は無い。


「おそらくだけど、どこかの大学に行くんじゃないのかな。適当なふさわしい大学に行って、ゆくゆくは父の跡を継ぐ。そんなつまらない人生を送ると思うよ、たぶん」


 自嘲じちょうした僕の物言いに、しかし来栖くんはほがらかな声で、


「ははっ、やっぱお前さぁ、死ぬつもりだろ?」


 世間話の続きみたいな気楽さで僕に向かって笑いかけた。


「〝残滓〟と相打あいうちするような、いわば英雄的な死に方を求めてる。風戸アンリがそうしたように。違うか?」

「……どうしてそう思うんだい?」

「だってお前、この前の〝残滓〟のグレードを俺から聞いたとき、残念そうな顔してたぜ? まるで幻獣型が出てきて欲しかったみたいによ」

「……よく見てるね。だけど別に、そこまで大層なことは考えてないよ」


 本当はありきたりな言葉で誤魔化ごまかそうと思っていた。来栖くんに告げたところでどうしようもないことだったから。しかし僕の心情は僕の決意を裏切り、湧き上がる衝動しょうどうのままに僕の口をうごかしていた。


「……ただ、わからないんだ。これからどう生きていけばいいのか、本当に」


 空は青く、どこまでも透き通るような瞳に似た太陽が僕らの頭上に輝いている。なにもかも見通すような、世界の優しさを感じさせてくれるような空。しかしまばらに埋め立てられた灰色の雲が、太陽に影を差すたびに、僕は自分が責め立てられているように感じて苦しくなった。


「僕はね、来栖くん」と、過去のあやまちを懺悔ざんげするように僕は言った。「ずっと死んだように生きてきたんだ。井のなかのかわず大海たいかいを知らないように、あるいは洞窟どうくつのなかの影を見て本物だと思い込んでいる人たちのように、僕はひどい幻想のなかで生きていたんだ」


 鳥籠とりかごのなかの世界は暗く、わずかに覗く空の青さに憧れた。


「でも彼女と出会って、自由の素晴らしさを知ってしまった。彼女と一緒なら、この広い世界をどこまでも羽ばたいていけると信じていた」


 欲深い生き物である僕ら人間にとって、一度味わってしまった夢を忘れることはできない。かわいたのどうるおすためにはえず水を補給しなければならない。しかし僕にとっての水はもう失われてしまった。


「だから僕はもうダメなんだ、来栖くん。何の気力も湧かないんだよ。僕が今いるのはただ一本の光だけが差す闇のなかで、だけどその光に向かって進んでしまうと地獄に繋がっているような闇のなかに今の僕は生きているんだ」

「……」


 語り終えた僕を来栖くんは黙って見つめていた。もうも無く予鈴が鳴ろうとしている昼休みの屋上は静かで、ひがしへと進む雲の音だけが唯一僕らの動向を見守ろうといそいでいた。


「——くだらねえ」


 しかし来栖くんはそんな静寂を打ち破る声で吐き捨てた。


「くだらないだって?」僕はムッとして言った。「きみに何がわかるんだよ」

「ああ、わかんねえよ。お前のウジウジした気持ちなんて、これっぽっちもな」


 だけど言葉とは裏腹に、来栖くんは僕をにらみつけるでもなく、ただ静かに僕の目を見つめていた。その瞳に乗る憐憫れんびんに僕は思わず目を背けた。そして来栖くんは言った。


「幸人。アンリといた頃のお前は、もっと傲慢ごうまんで、我儘わがままだったぜ」

「……僕が傲慢で、我儘だった時代なんて、一度もないよ」


 母が亡くなってからの時代も、風戸アンリと過ごしていた時も、もちろん今も、僕はずっとおびえた子どもだ。手を引かれなければ、この現実を前に進むことさえできない。


「俺はさ、お前のことをすげぇ奴だって思ってるんだ」

「……僕はずっと嫌われていると思っていたよ」

「もちろん嫌いだったぜ、初めはな」


 来栖くんは笑う。


「けどそれは当たり前だろ? だって俺はアンリのことが好きだったからな。ライバルになりそうな奴と、どうして仲良くできるってんだよ」

「……意外だよ。きみから見て、僕はライバルになりる存在だったのかい? こんな情けない男がさ」

「関係ねえよ。あのアンリが男を連れてきた。俺にとってはそれだけで大事件だ」

「……だからあの頃、きみは僕に厳しく当たってたんだね」

「ああ。ホントだせえよな、俺」


 初めて会ったときの来栖くんは、誰が見てもわかるくらいに僕のことを嫌っていた。訓練中に無視されたことは一度や二度じゃない。当時の僕からすれば、きっと来栖くんといまのような関係になれるなんて想像すらしていないことに違いない。


「——でもお前はめげずに食らいついてきた。それだけじゃねえ、あの風戸アンリにもお前はついていった。前にも言ったかもしれねえけど、それは誰にでもできることじゃないんだ」

「……買い被りすぎだよ」


 僕は世界に絶望していたから、失うものが何ひとつなかったからできたことだ。彼のように全てをなげ捨ててまで彼女についていくなんてことは、当時の僕にも、今の僕にだってきっとできやしなかった。


「……僕は、きみやエリックみたいに強くない。彼女を失った現実をどうしても受け入れられないんだ」

「別に強いわけじゃねえさ。ただお前と違って俺たちは、とっくの昔に覚悟ができていたってだけだ」


 思い出をさぐるような遠い目をする来栖くんは、あるいは空に映る影法師を見ているのかもしれない。遠い山並みに消えるような記憶となった影法師を……。


 彼と彼女は幼馴染だった。彼女とは違い、来栖くんの家は普通の一般家庭だったそうだけど、魔法使いになることを決めた彼女を追って彼は無理矢理キャリバンに入隊したらしい。


 十歳にも満たない少年にとって、それがどれほどの決断だったのかを測り知ることは僕にはできない。


 長い沈黙のなかで、ふと気がつくと、チャイムの音が鳴り響いていた。


「よくわかった」


 と来栖くんは膝を叩いて立ち上がった。そして風よりも冷たい声で、


「結局、お前はアンリが死んだことがつらいんじゃない。——風戸アンリという道標みちしるべを失ったことが辛いんだな」

「そ——」


 そんなことはない! そう否定しようとしたけれど、翼を持った言葉は僕の口から飛び出してはいかなかった。まるで金縛りにでもあったかのように、僕は黙って彼の目を見続けることしかできなかった。


 そんな僕を来栖くんは見下ろして、


「なぁ幸人。お前にひとつ、魔法を教えてやるよ」

「……魔法?」

「ああ。といっても、俺は魔法使いじゃねえから本物の魔法じゃねえけどな。ま、おまじないみたいなもんだ。心が軽くなる、な」


 そう言うと、来栖くんは僕の前にしゃがみ込み、じっと地面に座り続けていた僕の頬を両側からつまんで、


「——笑えよ。無理やりにでも。鏡を見ながら頬を持ち上げろ。偽物でもいい。笑えば心は軽くなるもんなんだ」


 夏の太陽みたいなアツさで笑いかけてくる来栖くんは、きっと僕にとって、かけがえのない存在というやつなのだろう。


 もしかすると、そんな存在を人は友達というのかもしれない。


 でもわからない。


 友達のできたことのない僕にとって、それが本当に友達というべきものなのかがわからなかった。


「ま、気が向いたらやってみろよ。何かが変わるかもしれねえぜ?」


 片手を上げて来栖くんは屋上を出ていった。


「……」


 だれもいなくなった秋の空の下で、僕は両手を持ち上げて口角こうかくを引っ張って笑ってみた。


「ははっ」


 もちろん何かが変わるはずもなかった。

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