第9話 彼女が世界を守った理由 Why she protected the world (序章 完)

 最後の記憶の中で、彼女は言った。


『それじゃあ、わたしはもう行くよ』


 出逢った時とおなじ放課後の屋上。


 でも、あの頃とは決定的に違う空の下で、僕らは向かい合っていた。


『……本当に行くつもりなんだね』

『それがわたしの役目だから』


 彼女と出逢って一年後の秋の終わり、魔物との戦いは激しさを増し、遂には目に見える形で日常に異変を感じるまでになっていた。


 そらよるのようにくもり、うみかざのように荒れた。


 誰もが世界の終わりを恐怖した。


 このまま放っておけば、どのような被害が引き起こされるかはかり知れない。


 ゆえに、キャリバンはひとつの決断をくだした。


 ——魔王との戦いに終止符しゅうしふをうつ決断を。


 だけど、それは誰かを犠牲にするということ。誰かを犠牲にすることでしか、魔王との決着をつけられないからこそ、彼らはずっとその決断を下すことをためらっていたのだ。


 けれど、もうそんなことは言ってられない状況にまで追い込まれてしまったから。


 彼らは彼女を犠牲イケニエにすることを決めた。


『……行っちゃダメだ。どうしてきみひとりが戦わなくちゃいけないんだ』


 みんながその事実を知っていた。来栖くんも、エリックも、彼女でさえ。僕だけが知らなかった。僕だけが最後になるまで、彼女が魔王を倒すということの意味を知らなかったんだ。


『心配してくれてるんだァ? ふふ、でも大丈夫。わたしは勝つよ、きっとね』


 彼女は変わらず笑顔だった。これから待つ運命を知っていたはずなのに。


 我慢の限界だった。まるで知らないように振る舞う彼女を見るのが。


 ――たまらなく嫌だった。


『……どうして』と、僕は呟いた。『どうしてきみは、そんなふうに何もかもすべてを背負おうとするんだ……』

『べつに背負ってるつもりはないよ。ただ、キミや凛太郎りんたろうたちを信じてるだけ』


 優しく微笑んだ彼女は、まるですべてを諦めてしまったかのように晴れやかで、そんな姿を僕はもう見たくなくて。


『信じてるって……ならどうして! どうして言ってくれなかったんだよ!』


 とまどう彼女の腕を乱暴に掴んで叫んでいた。


『——魔王を倒したら、きみは死ぬんだろっ!!』

『っ……』


 驚いた顔。その様子に、僕は余計よけいに悲しくなった。


『なに、言ってるの……。死なないために、倒しに行くんだよ?』


 結局、僕は最後まで彼女の信頼を勝ち得なかったということだった。


『……聞いたんだ、ぜんぶ。来栖くんに』


 僕がそれを告げると、やがて彼女は観念かんねんしたように大きく目をつむった。


『そっか……知っちゃったか……』


 彼女は天をあおぎ見て、それから悪戯いたずらがバレた小学生のように笑った。


『あーあ、キミには言わないでって凛太郎とは約束したのになァ』

『なんで、なんで教えてくれなかったんだよ! 教えてくれたら、そうしたら——』

『——いっしょにわたしが助かる方法を考えられた?』

 

 続く彼女の言葉は厳しさに満ちていて、僕は思わず身を固くした。


『だからだよ』


 そんな僕を見て、彼女は続ける。


『だからキミには教えられなかった。知ってしまったら、キミはきっと、もっと頑張ってしまう。今でも必死で努力しているくせに、精一杯せいいっぱいのくせに、それでもわたしを救うためにキミは限界を超えて頑張っちゃうでしょ?』

『あ、あたりまえだろ! きみを救うために頑張ることが、いけないことだっていうのかよ!?』

『ううん、そんなことない。そんなこと、あるわけないよ。キミがわたしをおもってくれている姿を見て、わたしはいま、泣きそうなくらい嬉しい』

『だったら——』

『でも、そうしてたら、キミは死んでた。絶対』

『——っ!』


 彼女の力強ちからづよい言葉とひとみに、僕は言葉をつむげなかった。否定したかった。でも、できなかった。理由は単純。そうかもしれないと思ったから。


『魔物との戦いは、寝不足のふわふわした頭で出来るほど甘くない。それはキミも分かってるでしょ?』

『……』


 何も反論できなかった。彼女の言葉はただしすぎるくらいに正論せいろんだった。魔物がそんなに簡単な相手だったら、そもそも人類はこんなことにはなっていないのだから。


『……わたしだって、万能ばんのうじゃない。キミを絶対に守り切れるっていう保証はなかった。だから言えなかった』


 本当にくやしそうに力のなさをなげく彼女を見て、僕は砕けそうなくらいに強く歯をみ締めた。自分の情けなさに反吐へどが出そうだった。


 はじめから、僕に彼女を非難ひなんする資格なんてなかったのだ。うらむべきは自分自身。最後まで彼女にとっての足手あしでまといにしかなれなかった、頼るべき存在になれなかった僕の力不足ちからぶそくまねいた責任だった。


『……それでも』


 だけど、僕はまたし返すような言葉を振り絞り、ゆずれない想いを口にした。


『それでも僕は教えてほしかった。きみの口から。きみと同じだけの苦しみを背負いたかったんだ……』


 もう風でさえさらえないくらいに高まってしまった感情を少しでものがしたくて、僕は空を見上げた。でも、灰色はいいろやみおおわれた空は悲しみをたくわえるには重すぎて。六月ろくがつあめのように戻ってくるばかりだった。


『……ありがとう』と、しばらくして彼女は言った。『ごめんね。キミのことを想ってのつもりだったんだけど、結果的にはキミを傷つけちゃったね』


 本当にごめん。懺悔ざんげするように彼女は僕から視線をらした。


 そんなことを言って欲しかったんじゃなかった。


 僕はただ、きみの力になりたくて、きみを失いたくなかっただけなんだ。


 だから僕は彼女に告げた。


『——僕も行く。きみひとりだけを行かせたりはしない』


 それだけが僕の願いで、それだけが僕の生きる意味だった。


 けれど——。


『ねえ、ユキトくん』


 場違ばちがいな声音こわねで彼女はささやいた。『ちょっとこっちを見てくれる?』


 訳もわからないままに彼女の顔を見つめて、だけどずっと見ているには恥ずかしくて、僕が目を逸らそうとすると、


『ダメ。ちゃんと見てて』

『……恥ずかしいんだけど』

『なんで? なんで恥ずかしいの?』

『それは……』


 きみが好きだから。


 でも、最後までそんな言葉を告げる勇気はなかったから、僕は黙って視線を逸らし続けた。


『もー仕方ないなァ、キミは』


 彼女はそんな僕に微笑むと、僕の頬を優しく掴んで自分の方へと向けた。


『うん、やっぱりキミの瞳はもう大丈夫だね。優しい色をしてる。——忘れないでね、その瞳を』


 それから彼女はふっと口元を緩めると、顔を近づけてきて、


 ——僕はキスをされていた。


 ふわりとした温かい感触がくちびるに触れた。


 彼女の唇は、春のそよ風のように柔らかで、出来立てのアップルパイのように温かかった。


 やがて離れていった彼女の赤く染まった顔には、はにかんだ笑顔が浮かんでいた。


『……知ってた? わたしね、キミのことが好きなんだよ。たぶん、この世界よりも——』


 彼女は顔を隠すように囁くと、くるりと後ろを向き、そのまま言葉を続けてきた。


『前に言ったことあったっけ? わたしが魔法使いをめざした理由』

『……世界が、好きだったからって』

『そう。この世界が好きだから、大好きだったから、守りたいと思ったから……わたしは魔法使いになることを選んだ』


 それはいつか聞いた彼女の根源こんげん人知ひとしれずなみだを流そうとも頑張ってきた理由。


『でもね、今はそうじゃないんだァ』


 だけど彼女はあっさりとそれを否定した。


『もちろん今でも世界は好きだよ。妹がいて、お父さんがいて、仲間たちがいる。そんな世界が大好き。……でも、でもね——』


 振り返った彼女は、本当にほがらかに笑っていた。


『——いつの間にか、わたしの目的は世界を救うことじゃなくなってた。世界よりも守りたいものができたんだァ』


 ぐに咲かせる向日葵ひまわりのように、彼女はとびっきりの笑顔を浮かべていたんだ。


『この世界には、キミがいる。キミがいるから、わたしはこの世界を守るの——』


 涙が出そうだった。悔しさと、嬉しさで。


『……だからね、今のわたしは世界の為には死んでやれない。キミの為に、キミが死んで欲しくないから、わたしは——』


 ——死ぬの。


 そう言った彼女の表情はずっと晴れやかだった。まるでこれからの未来に想いをせる中学生の少女みたいな表情。ささやかな夢の展望を語る子どものように純粋な笑みだった。


『や、やめろよッ! 僕はそんなこと望んでない!』


 僕は叫んだ。そうしないと、その瞬間に彼女が消えてしまいそうな気がして。


『僕はきみとずっと一緒にいたいんだ! きみは僕に本当の世界を見せてくれた。鳥籠とりかごのようだった人生を嘆いていた僕に、自由の素晴らしさを教えてくれた。なのに、そのきみがいなくなったら、僕はまた元通りの、世界に絶望するだけのつまらない男になってしまう! だから、だから——ッ!』


 身体があたたかい感触に包み込まれた。


 駄々だだをこねる子どもをあやすように、彼女は僕のことをきしめて囁いた。


『……ダメだよ、それ以上キミにそんなことを言われたら、せっかくの決意がにぶっちゃう』

『そんなの、鈍らせればいいんだ……』


 彼女の体温が僕に伝わってきた。もう二度と離したくないと思った。


『……逃げよう。僕と一緒に。きみがいれば、きみさえいれば、僕は世界なんかいらない』


 彼女の命と世界、どっちがより大切なんか比べるべくもなかった。たとえ世界中が敵になったとしても、僕は彼女に生きてほしかった。


『……ごめんね』


 だけどゆっくりと、彼女は首を振る。


 そして僕の瞳を優しくのぞき込んで、それからにっこりと笑って告げた。


 ——べニオビューマ、と。


『……な、んで……』


 それは、ねむりの魔法。彼女が使える魔法の中ではいちばん弱く、けれど強力な魔法。たとえ相手がゾウであっても眠らせる魔法だった。


 なすすべもなく、僕はひざからくずれ落ちていく。


 彼女は赤子あかごかしつけるように優しく僕のことを支えたまま告げた。


『……本当にごめんね。あの日、私のワガママでキミを巻き込んで。ごめんね。最後にこんなことをして。ゴメンね。呪縛じゅばくになるってわかってるのに、キミのために死ぬだなんて言って。でも、だから、これはわたしからの最後のお願い。——わたしのことは忘れて。わたしのために泣いたりしないで。自分のために、精一杯、生きて……』

『……やめ、……』

『さようなら、ユキトくん』


 ——大好きだよ


 薄れゆく意識のなかで、温かい感情がほおに触れた気がした。




 ……そして。


 次に僕が目を覚ましたときには、すべてが終わっていた。


 曇天どんてんだった空はまるで最初からそうだったかのようにれやかになっていて、


 世界からは魔王が消えていて、


 ——彼女はいなくなっていた。


 僕の胸に、僕にはどうすることもできない悲しみだけを残して。

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