第70話 たった一つの俺にできること

 当初聞いていた『飲酒・喫煙』よりも、もっともっと最低なことがあった。

 そして巴先輩は、信頼が失墜しっついした生徒会に有終の美を飾るため、学校を去らざるを得なかった阿藤先輩のため、たった一人で『針のむしろ』たる生徒会にしがみついた。

 その並々ならぬ意志と覚悟の強さに、俺は感服することしかできない。


 豚ロースをでながら、俺は小さくため息をつく。

 俺ができるのは、感服とか尊敬とか、そんな精神的なことだけか……と。


 火の通った豚肉をざるにすくい上げつつ、リビングの方へ視線を向ける。

 ソファに腰かけた制服姿の先輩が、ぼんやりした眼差しでお昼のワイドショーを眺めていた。

 流れているのはニュースではなく、『芸能人のお宅拝見!』みたいなどうでもいい内容のものだったけれど、頭を空っぽにして視聴できるから、あんな話をたあとにはうってつけだろう。


 本当なら今日は先輩が来る日じゃなかったんだけど、総会室での話が終わったあと、俺から先輩を自宅に誘った。

 自分でも意地が悪いと思ったけれど、あえて安元先輩のいる前で。


 安元先輩のことは立派だと思うし、尊敬もしている。でも、それとこれとは別だ。あんたは諦めてしまったけれど、俺はまだ諦めないと積極的にアピールしておきたかった。


 安元先輩はなにも言わず、一瞥いちべつさえくれなかったけれど、無関心を演じているだけだってなんとなくわかった。

 その心境をおもんぱかると、良心がちくりと痛むけれど、だからといって身を引くなんて選択肢はない。


 なんて考えていたら、中華麺を茹でていた鍋が吹きこぼれそうになったから、慌てて火を弱める。

 キッチンタイマーが所定の時間を告げたあとは、麺をざるにあげて、流水で洗い流しながら冷やす。

 水を切って、盛りつけ、具材を乗せて……よし、これでいいだろう。俺は皿をダイニングテーブルへと運んだ。


「できましたよ、先輩」


 声をかけると、先輩はゆっくり立ち上がり、ダイニングへとやって来る。


「ありがとう……。手伝わなくてごめんね」

「いいんですって。話を聞かせてくれたお礼ですから」


 食欲の薄そうな先輩のために作ったのは、冷やし中華だ。もちろん麺とタレは市販品だけど、上に乗せる具材にはひと手間加えている。


「お、おいしそう……!」


 元気のなかった先輩の瞳が、ギラリと貪欲に光った。

 こんもりと盛られた豚しゃぶを見て、食欲をそそられない者は少ないだろう。

 野菜は定番のきゅうりやトマトに加えて、茹でモヤシとワカメで、さっぱりかつボリューミーな仕上がりになっている。

 炭水化物にタンパク質、たっぷりの野菜まで摂れる、一石三鳥の一品だ。


「マヨネーズかけますか?」

「かける~!」


 うきうきと声を弾ませる先輩へ、冷蔵庫から取り出したマヨネーズを手渡した。


「好きなだけどうぞ」


 すると先輩は遠慮がちにはにかみつつも、お好み焼きにかけるみたいに、格子状こうしじょうにマヨネーズを絞り出した。

 なるほど、先輩はたっぷり全体に行き渡らせる派か。

 俺は皿の端っこに絞り出す派だったんだけれど、今日は先輩にならうことにした。


「いただきま~す」


 手を合わせた先輩は、さっそく豚肉に箸をつけた。野菜と共に口に含んで、満面の笑み。


「冷やし中華のタレと豚しゃぶが合うね! 家でも手軽に作れそう」

「そうですね。豚肉を茹でるときは、湯に酒と塩を加えてください。臭みが取れるので。あとは自然に冷ました方が、肉が硬くならなくていいですよ」

「は~い、先生」


 先輩は茶目っ気たっぷりの返事をくれた。俺の作ったもので元気を取り戻してくれたのなら、それに勝る喜びはない。


 しばらくはお互い無言で冷やし中華を食べた。きゅうりやモヤシのシャキシャキした食感、トマトの酸味、肉の旨味、タレのさっぱり感。そのすべてが、動きの鈍った胃にガツンと訴えかけてくる。

 麺はつるっと滑らかで、非常に喉越しがいい。スーパーで一番高いものを選んだ甲斐がある。


 食事が半分以上進んだ頃、先輩がぽつりと口を開いた。


「ゴウくん、例の説明、人任せにしちゃってごめんね。わたし、うまく説明できるか自信がなくて」

「いいんですって」


 正直、説明役を買ってくれた鞘野さやの先輩には感謝している。ああいう生々しい話を、巴先輩の口から聞きたくなかった。


「あの……先輩は、イヤな噂の餌食にはならずに済んだんですか?」


 おずおずと不安に思っていたことを尋ねると、先輩はこくりとうなずく。


「うん、被害に遭ったのは榎木田えのきだくんと仲良くしてた子たちだから。まぁ、わたしも生徒会室に入り浸ってたから、カレシがいたら危なかったかもしれない」

「そうですか……」


 ちなみに、カレシがいなかったのは当時だけですか? その前はいたんですか? 

 と根掘り葉掘り聞きたくなってしまったけれど、グッと飲み込む。そんなこと知っても、一文の得にもならない。


「榎木田くんは、ずっとヘラヘラしてた。親も親で、『転校させるからそれでいいでしょう』みたいな態度だったらしいよ。

 由之助くんなんて爆発寸前だったけど、なんとかこらえたみたい。殴った方が負けになっちゃうもんね。

 やるせない怒りを、文化祭への情熱に昇華させられたのは結果オーライだったかも」


 遠い目をしながら滔々とうとうと語る先輩。瞳の奥をまじまじと覗いてみれば、凍てついた怒りがある。


 そりゃそうだ、榎木田という男は、何人かの人生を大きく変えてしまった。残された者の高校生活をめちゃくちゃにした。


 先輩は小さく息を吐いてから、気を取り直すように食事を再開する。そのまま、小さな野菜の破片まできれいに完食してくれた。皿に残ったのは、マヨネーズ交じりのタレだけ。

 箸を置いて麦茶を飲んだあと、俺を真っ直ぐ見てにっこりと笑う。


「あ~おいしかったぁ。やっぱりゴウくんのごはんを食べると、元気が出るね」

「今日はほとんど茹でただけですけど……」

「それでも、食べる人のことを考えてくれてるでしょ。わたしが食欲なさそうだったから、さっぱりしたものを作ってくれた。野菜もお肉もバランスよく取れるよう、具も工夫してくれた。その心遣いが伝わってきたよ」


 先輩の言葉が胸に染み入り、俺はくちびるを震わせながらうつむいた。たしかにこの冷やし中華は、気落ちしている先輩のことだけを考えて作ったものだ。


 そんな俺の心遣いをきちんと察してくれる先輩のことが、本当に好きだ。

 でもこの想いは、もう少し胸に秘めておく。


「ゴウくん、話を聞いてくれてありがとね。すごく嫌な気分にさせちゃっただろうけど……」

「いえ、いいんです。こっちこそ、嫌な思い出を掘り起こさせちゃって、すみません」

「ううん、いいの。今までゴウくんには本当に良くしてもらったのに、ずっと蚊帳の外に置いちゃってたから」 


 先輩は申し訳なさそうに眉尻を下げたあと、口元に柔らかい笑みを浮かべる。


「四月から今まで、本当にありがとう。わたし、あと一か月頑張るね」

「……はい、頑張ってください」


 短い言葉の中に、万感を込める。


 俺はもう、『できることがあったら言ってください』とは言わない。言えない。

 生徒会に関して、俺にできることはないとわかったから。

 わかっていても、無力感と悔しさに胸が締め付けられる。


 でも、ふと思った。

 生徒会に関してはなにもできないけれど、先輩に対してはできることがある、と。


 それはとても些細ささいなことかもしれないけれど、自己満足に過ぎないけれど。

 そのたった一つのことを、俺は成し遂げようと思う。

 そして、いだいてきた想いを告げよう。

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