第54話 お子様舌のあなたに捧げるカレー その4

「カレーだ、カレーだよゴウくん! CMで見るような、家で作るカレーだぁ!」


 テーブルの上のカレーを眺めながら、先輩は興奮気味に叫んだ。


 トマトジュースを加えたことで、カレーはほんのわずかだけ赤みがかっていていた。

 大きめの野菜がゴロゴロと存在を主張し、炊きたてのごはんがホカホカと湯気を立てている。

 俺と先輩の周囲に漂うのは、食欲をこれでもかとそそるスパイスの香り。


「わたしでもこんなカレーが作れるんだ……! ゴウくん、本当にありがとう……!」


 先輩の視線が、カレーから俺に移った。間近で視線がぶつかり、心臓が高鳴る。どくり、どくりと二回。


 一回目は、ときめきからくるもの。

 二回目は、先輩の瞳が濡れていることに気付いたから。


 涙こそこぼれていないものの、先輩は感極まって泣いている。初めて俺が弁当を作ってあげたときのように、ずっと憧れていたものが目の前に現れた喜びから。


「先輩のお父さんもすごく喜ぶと思いますよ」


 柔らかく声をかけると、先輩は指先で目尻をぬぐう。


「うん……だといいな」

「俺の母親も、初めて俺の料理を食べたとき、ボロボロ泣いてましたよ。あまりの気まずさに俺は部屋に逃げ帰りました」


 我が家の小っ恥ずかしいエピソードを暴露すると、先輩はくすりと笑う。


「泣かれるのはちょっと困るね」

「まったくですよ」


 二人で肩をすくめ合い、それから食卓についた。先輩がスマホでカシャカシャッとやり始めたのは予想通り。


「あ、ゴウくんがちょっと写っちゃったけど大丈夫?」

「っ、それ盗撮ですよ」

「べつに変な顔してないからいいじゃない、ホラ!」


 と見せられたスマホの画面。そこに映し出されている俺は、びっくりするくらい穏やかな笑みを浮かべ、先輩の方へと視線を向けていた。

 先輩を見つめているときの俺は、こんな表情をしているのか……。


 そして、この表情には見覚えがあった。

 親父の単身赴任が決まったとき、半ばヤケクソになりながらも、『家のことは俺に任せとけ!』と啖呵を切った。

 その瞬間親父が見せた笑みと、先輩のスマホに映る俺の表情が本当にそっくりだった。

 俺はどちらかと言えば母ちゃん似だと思っていたのだけど……。


「じゃ、保存しておくね」


 呆気に取られている俺をよそに、先輩はスマホをスカートのポケットに収めてしまった。


「ほ、他の人には見せちゃダメですよ」

「ふふ、わかった」


 軽やかに笑ったあと、先輩は胸の前で両手を合わせる。


「じゃあ、いただきます」

「いただきます」


 二人同時にスプーンを手にして、カレーとごはんをすくう。


「……おいし……っ!」


 先輩の歓声が耳に届き、俺は咀嚼そしゃくしながら微笑む。


「トマトジュース入りのカレー、お口に合いましたか?」

「うん、ほんのちょーっとだけ酸味を感じるけど、それがいいね。辛さが抑えられて、食べやすい。永遠に食べ続けられそう!」

「おかわりたくさんしてくださいね」

「うん、たくさんする!」


 先輩は満面の笑みを浮かべたあと、淀みない手つきでカレーを口に運び始めた。だから俺も食事に集中する。


 個人的にはもうちょっと辛いカレーが好みだけれど、これも十分おいしい。


 先輩のつたない手つきで切られた野菜たちは、ホクホクしていて食べ応え抜群。特に、くし切りにした玉ねぎは煮込まれてトロトロになっていて、口内で甘みを放出しつつほぐれていく。


 安い豚コマはちょっと硬めになっているけど、俺はカレーの主役はルーと野菜だと思っている。肉は旨味を加えるだけの添え物に過ぎない。まぁ、たまに肉が主役のカレーも作るけれど。


 ああ、今後も先輩に、いろいろなカレーを食べさせてあげたい。

 鶏肉をヨーグルトに漬け込んだカレーや、エリンギとマイタケのキノコカレー、夏野菜たっぷりのカレー、柔らかな春キャベツのカレー……。

 

***


 食後は静岡県産の緑茶と共に、先輩がお土産として買ってきてくれた焼き菓子をつまむ。

 食欲が存分に満たされたおかげで、ほんの少し頭がぼんやりしてきて、時間の流れもゆったりまったりと感じる。


「ゴウくんはさ、将来の夢とかある? こんな仕事したいな~、とか」


 のんびりした口調で先輩が話しかけてきた。


「いえ、ぜんぜん決まってないというか……正直考えたこともありません。親父と同じ、『普通のサラリーマン』になれたらいいかな、程度です」


 はにかみながら答えると、先輩も柔らかく笑う。


「だよね、わたしもそんなもんだよ。ママみたいにカッコいい社会人になれたらいいなって……」


 ずずっとお茶をすすったあと、なんだか遠くを見るような目をして言う。


「でもね、こんなふうにも思うんだ。子供が大きくなるまでは、いつもそばにいてあげたいって。学校から帰ったら出迎えてあげて、話を聞いてあげて、手作りのおやつやごはんを食べさせてあげたい……。今日ゴウくんがしてくれたみたいに、一から丁寧に料理を教えてあげたい……」


 俺は息を呑んだ。先輩からしてみたら軽い雑談感覚なんだろうけれど、先輩の家庭の事情を知っているとどうしても深刻な話に感じてしまう。


「わたしがしてもらえなくて悲しかったことをしてあげたい。でもそれは、ママの生き方を否定することになっちゃうから、ちょっと複雑なんだぁ」


 と、先輩は苦笑のようなものを浮かべた。なんて相槌を打っていいかわからず、俺も曖昧な笑みを返しておいた。


「……でもね、最近思ったの」


 湯呑をテーブルに置き、先輩は気を取り直したように続ける。


「子供の傍にいてあげるのは、わたしじゃなくてもいいかなぁって。将来の旦那さんに専業主夫になってもらって、わたしが一家の大黒柱になる……っていうのもアリかなって」


 意外な言葉に、俺は目をぱちくりとさせながら先輩を見た。

 先輩は、『なんちゃって~』と言わんばかりの表情をしているけれど、実はけっこう本気なんじゃないか、って感じた。

 まだ高校三年生なのに、もう結婚や育児のことまで見据えているその姿は、のほほんと生きてきたガキの俺には本当にまぶしく映る。


 それに、『最近思った』ということは、俺の影響があったりするのかな……。


「ねぇ、ゴウくん的にはそういうのアリ?」

「た、多様化の時代ですからね、夫婦が納得しているなら、ぜんぜん問題ないと思いますよ」


 俺は真面目腐って答える。


「でも、専業主夫じゃなくても、在宅でできる仕事もあるでしょうし……。

 それに、うちの伯母がそうだったんですけど、つわりがひどかったりして、仕事を辞めざるを得なかったりするかもしれないですよ。

 だから、将来の旦那さんと相談したり、そのときの状況を考慮したりして、臨機応変に決めるのがいいと思います」


 言ってから後悔した。できる限り大人びた回答をしようと意気込み過ぎて、ちょっと上から目線になってしまったかもしれない。

 けれど先輩は感心したようにうなずく。


「そっか、そうだよね。そもそも結婚できるかもわからないし、子供ができるかもわからない。産休の取れる職場に勤められるかもわからない……」

「そ、それに、先輩が大黒柱になるんだったら、料理上手の旦那さんを見つけないと……」


 ──たとえば、俺みたいな。


 喉元まで出かかった言葉を、俺はすんでのところで飲み込んだ。


 話の流れで言ってしまってもよかったかもしれない。けれど直前でヘタレた。冗談だと流されてもショックだし、本気だと理解されて距離を置かれても悲しい。


「それが一番難しいかもね」


 先輩がくすりと笑う。


 ──難しくないです。目の前にいる男がそれを望んでいます。


 その台詞をぐっと飲み込んで、俺はヘラヘラ笑いながら、「そうですね」とだけ言った。

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