第53話 お子様舌のあなたに捧げるカレー その3
「肉、炒めてみますか?」
先輩へターナーを渡すと、「うん」と緊張した面持ちでうなずいた。肉をほぐしながら炒めていく手際は、まぁ申し分ない。
「そういえば先輩の家のコンロって、ガスですか、IHですか?」
「ガスだよ。ゴウくんちと似たかんじのやつ」
「じゃあ、火加減を覚えておいてください。炒めるときは中火です。ちょっとしゃがんで、見てみてください」
「これくらいが中火なの?」
「はい、一瞬だけ強火にしますね。炎が鍋底いっぱいに広がったでしょう? 炎が真っ直ぐ立ち上がって、底の中心部だけに当たっている状態が中火です」
「……難しいかも」
くちびるを尖らせながら、先輩は肉を炒める作業を再開した。だよなぁ、と俺も首をひねる。
ベストな火加減を覚えるには、ある程度の慣れが必要だ。慣れてしまえば、いちいち火の様子を目視しなくても、具材の火の通り具合で判断ができるんだけれど。
「でもカレーは最終的に煮込むので、炒める段階では生焼けでも大丈夫ですよ。心配だったら弱火でじっくり炒めてください」
そう、カレーとは本当に素晴らしい料理だ。初心者でも、ズボラで不器用な人間でも、余計なことさえしなければ無難に仕上がるんだから。
反対に、こだわろうと思えばとことんこだわれるし、様々なアレンジも可能だ。
ある程度肉に火が通ったら、野菜をまとめて投入し、先輩にはひたすらターナーでかき混ぜてもらう。
「どれくらい炒めたらいいの?」
「そろそろ大丈夫ですかね。ほら、ジャガイモが透き通ってきてませんか?」
「す、透き通る?」
先輩は不可解そうに眉根を寄せた。鍋の中のジャガイモの状態を確認したあと、はっとしたように目を見開く
「たしかに、表面が透明っぽくなってるね」
「これで煮崩れしにくくなりますよ」
「へぇぇ~、なるほどぉ~!」
深く感心したように先輩は目を輝かせる。
「いったん弱火にして、水を入れましょう。水の量はルーの箱に書いてあるんですけど、これよりも少なめにするのがオススメです」
「どうして?」
「ルーを溶かし終わったあとに少しずつ水を加えて、好みのドロドロ具合にするのがいいですよ。使う野菜によっては水分が出たりしますし、最初から規定マックスの水を入れてしまうのは危険です」
「そうなんだ……」
目を丸くする先輩の前で、俺は計量カップに水道水を注ぐ。
「箱には700って書いてありますけど、500にしておきましょう」
「うん、先生にお任せする」
俺に向かってにっこり笑う先輩に計量カップを手渡し、鍋へ投入してもらった。ジュワッと音を立てたあと、温度が下がって静かになる。
「蓋をして、しばらく煮込みましょう。あ、ちなみに、追加するのは水じゃなくてトマトジュースでもいいですか?」
冷蔵庫からペットボトルのトマトジュースを取り出すと、先輩にとっては青天の
「い、いいけど、変な味にならない?」
「ほどほどなら問題ないです。フルーティーでマイルドな味わいになりますよ。甘めのカレーが好きなら、うってつけです」
「そっか、辛いものが苦手なわたしやパパにはいいかも!」
「生のトマトや、缶詰めでもいいんですけど、ジュースの方が量の調整がしやすいし、余ったら飲めばいいですし。一人暮らし向けだと思います」
「な、なるほど……!」
先輩がずいっと身を寄せてきたかと思うと、両手をがっしり掴まれた。突然のことに、身体が硬直する。
「ゴウくんってほんとすごい、勉強になることばっかりだよ! 父の日のことも、一人暮らしするときのこともちゃんと考えてくれるし、バカにしないで丁寧に教えてくれるし! 思い切って相談してよかった!」
表情を輝かせる先輩に、俺はしどろもどろ。
「は、ははい、俺も先輩の力になれて嬉しいです。遠慮なく頼ってくださいね」
「ありがとう……。あ、でも、迷惑だったらはっきり言ってね」
先輩は俺からぱっと身を離した。
「迷惑だなんて、そんな……!」
今度は俺が先輩に迫る。ええい、勢い任せで言ってしまえ。
「お、俺、先輩のおかげで、毎日楽しい高校生活を送れてるんです。男の俺が料理することを肯定してもらって、俺の作る弁当を褒めてくれて、俺、すごく自分に自信が持てました。先輩に、その恩返しをしたいんです!」
「恩返し……恩返しかぁ」
先輩が困ったように笑う。
「わたしはそんな大したことしてないんだし、そんなに気負わないで」
なだめすかせるようなその物言いを聞いて、俺は『失敗したかも』と思った。
俺がしたいのは、『恩返し』なんて他人行儀なものじゃない。
先輩のことが好きだから、なんでもしてあげたい。もっと親しくなりたい、一緒にいたい、好感度を上げたい。
いつか伝えたいその思いを、今の段階で『恩返しです』の一言で片付けてしまってよかったんだろうか。もう少しフラグを立てておくべきだっただろうか……。
あー、恋愛って難しい!
「えっと、アク取りしましょうか……」
迷った挙句、俺は料理の方へ意識を向けることを選択した。
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