第32話 わたしのためのお弁当
弁当箱の蓋を開け、おかずの段とご飯の段を眼前に並べた先輩は、目を見開いたままぴたりと固まっていた。
手は机の上で所在なさげにしていて、弁当箱の蓋に収納されている箸を取り出す素振りさえ見せない。
「せ、先輩……?」
いぶかしげに声をかけたとき、先輩の瞳がわずかに揺らいだ。そしてぱちりとまばたきした瞬間、大粒の涙がこぼれ、白い頬を伝って小さな顎へと流れ落ちていった。
「先輩?!」
俺は驚きのあまり、大声をあげていた。弁当の中身が気に障ったに違いないと、慌てておかずに目を向ける。なにが悪かったんだろうか、と必死で原因を探った。
けれど頭が混乱して、なにもわからない。
「驚かせて、ごめんね」
先輩の涙声は、ますます俺を不安にさせた。
「すみません、俺、なにかとんでもないことをやらかしましたか……?」
「違うの。ゴウくん……」
と、先輩は指先で涙をぬぐう。俺は息を飲んで、先輩の次声を待った。
「……わたし、ただ嬉しくて。本当に、嬉しくって」
先輩の言葉に、俺は目を見張る。震える声に詰まった感情は、間違いなく『喜び』だった。涙をこぼさずにいられないほどの、とてつもない喜び。
でも、泣くほど嬉しいなんて、ちょっと大袈裟すぎやしないか?
「わたし、さっきまですごくワクワクしてたはずなのに、お弁当を見た瞬間、違う感情があふれちゃった……。でも、泣いちゃうなんて恥ずかしいな。笑っていいよ」
そう言って、先輩はぎこちなく微笑んだ。俺も
「ゴウくん、わたしが泣いちゃった理由、聞いてくれる? むしろちゃんと話さないと、ゴウくんを不安にさせたままになっちゃうよね」
「……はい、先輩さえよければ、教えてください」
俺は居住まいを正し、先輩へと向き直る。
先輩が自分自身のことを教えてくれるのは嬉しい。しかも、涙の原因になるような深い事情を語り聞かせてくれるというのだから、こちらも真剣な態度で
俺の真面目腐った顔が面白かったのか、先輩はふふっと小さく笑う。俺なんかのツラで元気が出るのなら、いくらでも見て笑ってくれていい。
先輩は大きく鼻をすすったあと、ゆっくりと話を始める。
「うちの親、共働きで外食か宅配ばっかりだって話したよね」
「はい」
「わたしが物心ついたときからずーっとそう。だから、こういうお弁当を食べたことがなくて……憧れてたの」
と、先輩はテーブルの上の弁当へ視線を向けた。そこに宿る感情は、まごうことなき『羨望』だった。
「運動会のときは、近所の総菜屋さんのオードブル。遠足とか、給食のない日は、パン屋さんのサンドイッチだったの。
もちろんすごくおいしいし、ママだって忙しい中で頑張って手配してくれたのはわかってる。
でも、友達が食べてる『普通のお弁当』が羨ましくてたまらなかった。なんの変哲もないおにぎりやふりかけご飯でさえ、本当においしそうに見えた。いつか、みんなが食べてるようなお弁当を食べるのが夢だった」
「そう、ですか……」
俺は絞り出すように相槌を打つ。
俺からしてみたら、店売りのオードブルやサンドイッチって、すごく羨ましい。
けれど、毎回それじゃ飽きちゃうよな。バリエーション豊かな手作り弁当の方が魅力的に見えた、というのは理解できる。
友達が持ってくる、それぞれの家庭で作られたそれぞれの弁当が、本当にきらめいて見えたんだろう。
初めて先輩と昼飯を食った日、先輩は俺の弁当を見て、ひどく興奮したような姿を見せた。今なら、その理由も十二分にわかる。
幼い頃から焦がれて焦がれて仕方なかった弁当が、すぐ真横に出現したのだから、そりゃあれだけ興味を示すよな。
あのとき、先輩の目つきを見て、『宝石箱を眺めるようだ』と思ったけど、俺の弁当は先輩にとって、正真正銘、色とりどりの宝石だったんだ。
それにきっと先輩は、運動会や遠足なんかの特別な日だからこそ、お母さんの手作り弁当が食べたかったんじゃないだろうか。他人の弁当を羨ましく思うのは、寂しさの表れもあったんじゃないだろうか。
そんな先輩の心境を想像すると、切なさに胸がきゅっとなる。
「そもそも、わたしが自分で作ればよかっただけの話なんだけど、そんなことにも気付かなくて……」
先輩は呆れたように肩をすくめ、再び弁当へとキラキラした目を向けた。
「でもね、誰かから作ってもらったお弁当ってだけで、何倍も嬉しさが増すね。たぶん、自分で作っていたとしても、満足はできなかったと思う。
誰かがわたしのために作って、届けてくれたお弁当じゃないと、ここまで感動できなかったよ」
先輩の声が熱を帯びていき、俺の胸まで熱くさせる。
「ああ、すごく嬉しい。わたしのための、わたしのためだけのお弁当。これ、全部わたしが食べていいなんて、素敵すぎるよ」
感極まったような物言いと共に、先輩は真っすぐ俺を見た。うるんだ瞳に、呆然とする俺が映ったかと思うと、ゆらゆらと揺れて崩れた。
「ゴウくん、わたし……ようやく夢が叶ったんだ……。ありがとう、ありがとう……」
先輩の声がかすれ、うつむき、両手で顔を覆う。きゃしゃな肩が小刻みに震え、そのたびに髪がさらさらと動いて位置を変える。
俺はただ黙って先輩を見守った。いや、そうすることしかできなかった。
泣いている女性に対して、どう声をかけたらいいかまったくわからなくて……。挙句、俺自身ももらい泣きしそうになってしまって……。
俺が為したことによって、俺の憧れの
小さな嗚咽も、指の隙間で光る涙も、俺にとってはあまりに眩しく、美しく見えた。
でも、いつまでも感動に浸っているわけにもいかない。ぐずっと鼻をすすったあと、つとめて明るい声で先輩に言う。
「食べましょ、先輩! ゆっくり味わう時間がなくなっちゃいますよ。感想だって聞かせてもらいたいですし」
すると先輩は、スカートのポケットからハンカチを取り出して顔に押し当てる。目元と鼻を隠したまま、口元だけが笑みの形を作り、明るい声を紡ぎ出した。
「うん、そうだね! 食べる前に昼休みが終わっちゃったら、わたし死んじゃう!
……でも、ちょっとトイレに行って、リセットしてきていい?」
「も、もちろんです」
先輩が退室したのをこれ幸いと、俺は自分の頬をぱちんと叩いて、ぎゅっと引っ張った。表情筋をほぐして、自然な笑顔を浮かべられるようにしておくためだ。ついでにこめかみのあたりも揉んでおく。
ややあって、「お待たせー!」と戻ってきた先輩は、赤い目をしていたものの、すっかりいつもの笑顔を取り戻していた。だから俺も、思いっきり口角をつり上げて、にかっと笑う。
「じゃ、食べましょう!」
「うん!」
そして俺たちは息を合わせて、お決まりのセリフを口にする。
「いただきます」
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