第30話 デート・バイ・デイライト シーズン8(END)

 危うく、『死因:思春期』になるところだった俺だけれど、食後のアイスコーヒーの苦みが、魂を肉体へと引き戻してくれた。


 コーヒーなんてしょせん、炒り豆の煮汁よ。おいしいはずがない。俺は顔をしかめ、くちびるを引き結ぶ。

 でも先輩は、ガムシロップもミルクも入れずに、平然と飲んでいる。大人だなぁ、と感嘆するしかない。


 どうやら、俺たちの間にある二年という年の差は、味覚に関しても多大な隔たりを生んでいるらしい。

 俺はその隔たりを隠すため、思い切り背伸びすることにした。ガムシロップとミルクの甘い誘惑をけて、ブラックのまま飲み干してやる。最後にレモン水を飲んで口直ししようっと。


「ゴウくん、今日はお弁当箱選びに付き合ってくれてありがとね」

「いえとんでもない。楽しかったですよ」


 先輩のお礼に、俺は噓偽りない言葉を返した。

 先輩の私服を拝めて、カップルみたいに買い物して、一緒に歩いて。こうして、雰囲気のいいレストランで食事をすることができて。

 挙句に、俺をたくさん褒めて、俺を肯定してくれた。もはや『楽しい』の領域を超越し、『幸福』と言っても差し支えないけれど、それはさすがに口にできない。


「うん、わたしも楽しかった。素敵なお弁当箱が買えたし、ゴウくんのことを知れてよかったよ」


 と、先輩は柔らかく微笑む。むぅ、このひとはナチュラルに俺を照れ殺しにくるなぁ。

 ムズムズした気分になりながら、ズズッとアイスコーヒーをすすっていると、先輩はショップの袋を掲げてみせた。


「このお弁当箱、このままゴウくんに渡しちゃっていいの?」

「はい、家で丁寧に洗って、月曜日には先輩のための弁当をたっぷり詰めてきますね」

「ありがとう。……でも、わたしから頼んでおいてなんだけど、特別なものを作らなくてもいいからね。いつもゴウくんが作ってるお弁当と同じでいいからね」

「はい、わかってます」


 なんて物わかりのいい返事をしつつ、やっぱり気合を入れずにはいられない。まだ献立も決まってないし、帰ったらあれこれ吟味して、日曜日に買い物行って、仕込めるものは仕込んでおこう。


「ああダメだ、月曜日のことを想像すると、顔がにやけちゃう」


 先輩はそう言って、己の両頬をむぎゅっと押さえた。押し潰された顔さえ魅力的で、俺もつられて笑ってしまう。俺だって、帰路でニヤニヤしない自信がない。


 そのあとは、約束通り先輩におごってもらい、店を出た。もちろん何度も「ごちそうさまでした」と頭を下げた。

 縦並びにエスカレーターをくだったあとは、駅まで横並びに歩く。駐輪場まで見送ってくれるとのことなので、ありがたくお願いすることにした。ちょっとでも長く一緒にいたいもん。


 午後の太陽光は強烈で、俺たちはわずかな日陰の中を寄り添うように進むことになった。

 何度も肩がぶつかり、そのたびにお互いちょっとだけ距離を取る。思い切って手を伸ばせば、先輩の細い指を掴めるんじゃないか、そうしてさりげなく手を握れるんじゃないか、と変な気を起こしそうになってしまった。


 間違いなく俺は調子に乗っている。ちょっと買い物と食事をしただけで、いい感じになったと浮かれる、勘違い男の思考だ。


 今は、先輩の白い首筋に浮かぶ玉の汗を、至近距離で眺められるだけでいいじゃないか。

 そのうえ、月曜日になれば、とびきりの笑顔を拝めることが確定しているのだから。


 けれど……先輩と俺の関係に、『その先』があるのかわからない。

 俺が、先輩の手を堂々と握れる日が来るかは、神のみぞ知る。


 感傷に浸っていると、不意に先輩が「きゃっ」と悲鳴を上げ、俺にしがみついてきた。どうやら、小さな段差でつまづいてしまったみたいだけれど……。


 互いの半身が密着する感触に、目が白黒する。二人とも半袖だから、もう、ナマでべったりよ! これが噂のラッキースケベですか?!


「っ! ごめんっ!」


 先輩は慌てて俺から手を放すと、ひどく気まずそうに眉尻を下げ、身を縮める。

 それは、なんだか意外な反応に思えた。


 だって、先輩は出会った頃から、俺に対して平然と接近し、ときには肩をくっつけてきたんだから。不可抗力でしがみつくくらいで、こんなに恐縮されるとは思わなかった。

 あ、もしかして俺の生腕がキモかった……?


「えっと……大丈夫ですか? 足、くじいたりしてないですか?」


 被害妄想を脳の奥に押し込んで、先輩を案じる言葉をやっとのことで絞り出す。

 先輩は、こくりとうなずいた。


「わたしは大丈夫。ほんとごめんね」

「いや、いいんです。俺のことなんて、気軽に掴んでもらえればいいんで」


 あはは、とバカっぽく笑いながら答えると、先輩は口元に微笑を浮かべた。


「お互いに無事でよかったね。しがみついた瞬間、ゴウくんも巻き添えにして転んじゃうかと思って肝が冷えたんだけど……。ゴウくん、びくともしなかったね」

「あ、はい。べつに大したことなかったですよ」


 細身の先輩が寄りかかってきたくらい、なんてことない。どちらかといえば、身体よりも心臓に受けた衝撃のほうが大きかったし。


「そっか、ゴウくんも男の子だもんね。たくましいんだ……」


 先輩は俺からプイッと目を逸らして、そうぽつりとつぶやいた。どことなく意味深な言動に、俺は大いに戸惑う。


 その意図を伺おうとしたとき、向かいからお年寄りが歩いてきたから、先輩は俺の後ろに下がってしまった。そのまましばらく、一列で歩く。

 歩きながら、背中をじっと見られているような気がして、くすぐったい気分になった。


 それからはあまり会話もなく、あっという間に駐輪場に到着してしまった。


「じゃあ、月曜日を楽しみにしてるね」


 と、先輩は手を振りながらにっこりと笑う。


「はい、期待しててください」


 俺が得意げに弁当箱を掲げると、先輩の表情がますますまばゆく輝く。ああ、いい笑顔。


「またコケないようにしてくださいね」


 軽口を叩くと、先輩は「もう!」と膨れて、俺の肩を殴ってくる。さぁ通りすがりの皆さん、こうしてふざけ合ってる俺たちって、カップルっぽいですよねー?


 互いに笑顔で、手を振って別れる姿も、はたからはたいそう仲睦まじく見えるに違いない。


 先輩が去ってからも、ニヤニヤをこらえるのが大変だった。

 今日はとてもいい日だったから。そして、月曜日はもーっといい日になるに違いないのだから。

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