第48話

 手を繋ぐ尚記の爪が伸びているのを後で注意しようと思いつつ、房子はそんな事を考えていた。

 桜並木に来た時とは違い、房子の手を引いて尚記は前を歩いている。手を繋ぐ事に慣れてしまったのか恥ずかしがる様子は無い。房子は尚記の薄い背中が規則正しく上下に動くのを目で追っていた。何の特徴も無い普通の背中だ。とても誰かの死を背負っているようには見えない。そんな背中を見ていたら房子の頭に疑問がポッと浮かんだ。

 本当に独りが好きなのか?

 房子の思考はこの疑問が浮かんだ事によって一瞬停止した。それから疑問の核心の周囲をウロウロするように、ふたたび思考を動かし始めた。

 あの背中には両親が亡くなった交通事故で負った傷跡が残っている。その傷跡の理由を尚記はまだ勘違いしたままでいるだろう。

 尚記と裕記は事故が起きた時、車に一緒に乗っていた。尚記はショックのあまり、記憶が混濁したらしい。裕記は事故が起きた瞬間は寝ていたようなので、そもそも事故の記憶がない。しかし尚記は経験した事実をショックのあまり違う事実にすり替えてしまったのだ。

 房子と沢五郎は尚記の上書きされた記憶を訂正する事が出来ないままでいた。出来ないままズルズルと先延ばしにしていたら、このままでも良いような気さえして来ている。

 独りが好きなのか?大切なモノを失うのが怖いのか?

 房子が実の一人息子を亡くしたのは、房子が十分に大人になってからだった。子供を亡くす耐性などは無かったが、その時の房子の心は柔らかくも脆くも無かった。尚記と裕記が来た事も救いになり、心は知らぬ間に修復されていて、今では手を合わせる時に目尻を濡らす程度で済んでいる。

 房子は大切な者を失う怖さを知っている。それでも心が育ち切らないうちに受けた心的外傷が、人格形成に於いてどのような影響を与えるのか想像できない。想像が出来ない以上、尚記が独りで居る理由は、独りが好きだからなのか、それともその根底には大切な者を失うのが怖い、そんな意識があるせいなのか分からず、房子は尚記に導かれながら尚記の核心の周囲をウロウロするしか無かった。

  

 何周したのだろう?房子は尚記の核心の周囲を同じ道筋を辿って歩いていた。現実でも意識の中でも尚記が手を引いている。

 現実で半歩ほど先を歩いていた尚記が房子の方に顔を向けて

「やっぱり房子さんは黙ってると綺麗ですね」

 不意打ちを食らわせて来た。房子自身の教育の賜物とは言え、油断している所に突然言われると、こそばゆくなってしまう。房子はいつものように素早くリアクションが出来ずにいると、すぐに何も言わなかったせいだろう、いつもと違う反応の房子を心配して、尚記は房子に向けた顔を房子に近づける。辺りは顔をかなり近づけないと表情が窺えないくらいまで暗くなっていた。

「大丈夫ですか?疲れましたか?寒いですか?」

 たて続けに質問をして、房子が何かを言う前にグイッと房子を引き寄せる。頭を撫でるくらいのスキンシップは今でもするが、こんなに密着面積の多いスキンシップは、いつ振りになるだろう。房子は鼓動が早くなるのを感じて、その対象が実の息子のような相手であった為、倒錯しそうになった。

「あん、いけずぅ」

 犬に手を噛まれたら、無理に引き抜こうとせずに逆に突っ込め。その理屈の応用で、房子は自ら尚記に体を押し付けて行き、倒錯しそうになった気分を、努めて明るい方法で元に戻した。

「やめて下さいよ」

 ため息をつきながら、尚記が腰を逃して行く。

「元気じゃないですか、心配して損しました」

 腕も離そうとするので、それはさせまいと、房子は必死に尚記の腕を掴んだ。再び倒錯感を味わいたかった訳では無い。実際に寒かったし、最近歳のせいか鳥目がひどかった。尚記に手を引いていて貰うと安心だったのだ。

 房子の必死さから、完全におふざけでは無い事を感じ取ってくれたのか、尚記は腕を絡めておくのは許してくれた。が、房子がふざけて腰に手を回そうとすると、それは許してくれず、笑いながら先程と同じように腰を逃していった。房子の手は逃げる尚記の腰を追いかける。尚記は笑いながら腰を引く。じゃれ合う事に夢中になって、房子は考え事をしていたのを忘れてしまっていた。

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