第49話
じゃれ合う中年の男女の姿は周囲からは、さぞ奇異に映るはずだ。特に房子の声は低いながらも良く響く。生憎の天気で人は少ないとは言え、誰も居ないと言うわけでもない。ちゃんと傘をさして買い物袋を下げた主婦と思しき人が、必要以上に二人を避けてすれ違って行った。
桜並木は川沿いに敷かれた道の300mほどを占めて立ち並び、並木の始点と終点付近にある橋を渡れば、川沿いにグルグルと周回出来るようになっている。並木の中程にも橋があった。
二人が休憩を取っていた店は、三本ある橋の真ん中の袂にあり、二人は店を出てから橋を渡って、川向こうの道を尚記の部屋から遠ざかるように並木の終点へ…どちらが始点でどちらが終点か分からないが、今の二人にとっては終点側の橋を渡ってUターンし、尚記の部屋に戻るように、ジャレ合いながら歩いていた。
休憩を取った店の近くまで戻って来ると、買い物袋を手にした女性が、桜に積もった雪を、もしくは雪の積もった桜の様子をスマートフォンで写していた。
先ほど二人を異様に避けてすれ違って行った主婦とは別人だ。まず服装が違ったし、写真を撮っている女性は傘を持っていない。
雪は相変わらず降っていたが、暗くなってから気温も下がり、牡丹雪の状態からサラサラとした雪質に変わっている。服の上で溶けること無く落ちて行ってしまうので、傘をさしていないのは違和感とは感じ無い。
けれども、何故だか房子は違和感を感じた。何故だろう?暗くて良く見えないが不審な身なりでも無さそうだし、写真を撮っているのは少し目立つが、桜が咲く時期に雪が降るのは珍しい、そう思ってしまえば、すぐに納得出来てしまう程度の事だ。
房子は違和感の出所を探した。するとその女性が必要も無いのにそこに居る感じがするのだと、房子は明滅している自身の直感をようやく捉えた。捉えた直感を元に尚記と戯れるのを控えて良く観察してみると、女性は写真を撮っているのに外灯から離れた暗い場所で撮影している。
房子に写真の趣味は無いので、暗い場所で撮影した方が上手く撮れる技法があるのかも知れないが、そこまで撮影方法に拘るなら機材もそれなりの物を使うだろう。女性が使っているのはスマートフォンだ。単純に考えて明るい場所で撮影した方が良さそうだった。あと数10メートル、もうちょっと歩けば店の灯も、橋の袂の外灯もある場所で撮影が出来るのに。女性は何かコソコソと、撮影とは別の目的があるように写真を撮っている…撮っている振りをしている?
房子は自分が直感で感じた違和感が具体的に何なのか分かったので、尚記に不審な女性が居る事を教えてやろうと、女性から目を離さずに尚記の袖を引っ張ろうとした。しかし想定していた場所に尚記の袖は無く、尚記の腕の重みの抵抗を期待していた房子の手は空振りをし、勢いがつき過ぎた房子はバランスを崩した。雪は積もっていなかったので それほど滑りやすい訳では無かったが、地面は濡れて踏ん張りが利かなかった。
「ひゃっ!」
転びそうになる房子を予期していたかのように、尚記は落ち着いて支えてくれた。
「あんなにはしゃいでいたら、いつか転ぶと思ってましたよ。今も油断させて、いきなり触るつもりだったでしょ?」
得意気な顔である。
房子は支えられていると言うよりも、ほぼ抱きしめられている。
「違う、違う。そないつもり無い…あそこに…」
あそこに変な女性が居ると伝えたかったが、転びそうになった時に房子は大声を出してしまった。立場が逆転して二人を不審だと思った女性がこちらを気にしているかも知れない。房子は「あそこに…」から先の言葉を呑み込んだが、視線は押しとどめる事が出来ずに、女性が居る方を見てしまった。
自然、促されるように尚記も房子の視線を追って、暗がりに女性が居る事を認識した。
案の定、女性は房子の悲鳴に反応して二人の事を見ていた。しかし二人の事を不審者だとは思わなかったようだ。転びそうになった女性を近くに居た男性が助けた。そう思ってくれたらしい。特に訝しんで警戒している様子も無い、普通の声のトーンで
「大丈夫?」
房子の体勢を立て直すのを手伝うつもりなのか、問いかけながら歩み寄って来た。
尚記がハッとしたのが、房子には伝わった。何しろ房子は尚記に抱きしめられているのだ。表情だけでなく、息遣いや筋肉の緊張具合まで伝わって来る。女性の声を聞いた途端に尚記は息を飲み、房子を抱き支える腕に力を入れた。結果、房子は尚記にきつく抱きしめられた。
「八崎さん!?」
房子の耳が尚記の口元近くにあるので、そう大きな声では無かったが、熱を帯びた尚記の声が鼓膜をくすぐり、房子は思わず背筋を伸ばした。
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