第50話
「あぁ、やっぱり沢田さん」
尚記にヤサキと呼ばれた女性は、その顔の目鼻立ちがハッキリ見えるくらいまで近づいて来た。房子は尚記が起こし切ってくれないので、斜めの視界のままヤサキの表情をつぶさに見て取ろうとする。顔の造形は判るが、表情から心情を探るなら、もう少し明るさが欲しい。房子は自分の老いを恨みつつ、それでも今できる目一杯の能力でもってヤサキを値踏みし始めた。
雪の似合う女性である。声も表情も落ち着いている。顔立ちは綺麗な部類だろう、だが地味だ。この時間の買い物だ、化粧をしていない所為も有るかも知れないが、顔だけで無く、醸し出す雰囲気に華がない。これもワザと控えめにしているのだろうが、控えめにし続けたせいで、髄まで染みついてしまった感じだ。華奢で体のラインにメリハリが無いのも地味さに拍車をかけている。汎用は効くが凡庸な服を、故意に選んで着ているからだろう。
きっと、この人が尚記の想い人で、その人は既婚者だと尚記は言っていた。この体勢ではヤサキの左薬指を見る事は出来ないが、既婚者であれば無闇に体のラインをアピールする服を着ていると、世間は未だに眉を顰める風潮だ。普通の顔、普通の服。一度見ただけではとてもでは無いが覚えていられない。
房子は日本中に居るであろう、鳥籠の中で飼われ続け、飛び方を忘れてしまって、籠の扉は開いているのに飛び立てない小鳥達の、その中の一羽を見た気がした。
「ハチサキさん、この前はいきなり変な事を言って ごめんなさい。寒くないんですか?」
ハチサキ?房子は尚記の腕の中で怪訝に眉を動かして、名をヤサキからハチサキに変えた小鳥を見た。
「八崎よ。キミと会うといつも同じ質問をしちゃうけど、何をしているの?」
「転びそうになったんで、助けたんです」
そう言いながら、尚記は体勢の崩れて来た房子を抱きしめ直す。
房子は女が尚記にハチサキと呼ばれた時の、驚きとその後すぐに驚きが喜びに入れ替わって行く表情を見逃さなかった。
何なのだろう?今のやり取りは。尚記は最初、確かに八崎と呼んだはずだ。なのに何故、改めて間違った呼び方をするのだろう?おかげで八崎に当てはまる漢字の見当はつけられたが、呼ばれた方も呼ばれた方で、なぜ尚記が改めて名を間違えて呼んだ事に、一言も言及しないのだろう?そして何故、喜ぶ?
房子が尚記の背中に腕を回したままの状態で疑問を渦巻かせていると、八崎は尚記と房子の顔を交互に見ながら、
「あのぉ、お助けしましょうか?彼の言ってる事は本当ですか?」
極めて落ち着いて、尚且つ余裕を持って房子に声をかけて来た。尚記の言っている事が嘘で房子を抱きしめいるなら、本当かどうか確認する前に、助けなければならない位に問題なのは、聞いて来た八崎にも分かっている事のはずだ。
冗談混じりの質問に余裕を感じるが、その余裕は無理に作り出しているようにも感じる。
「本当ですよ」
答えたのは、尚記だ。
房子は、房子が何かしらの返答をしようと思ったが、無理な体勢を長く取っていた為に、声を出すには、いつもより多めの空気が必要だった。
房子がいつもより多く空気を吸っている間に、心外そうな声で尚記が答えたといった状況である。答えながらやっと房子を立たせてくれた。
「暗いけど、人通りのある所で襲う訳ないでしょう。転びそうになってたんですよ」
暗くて、人通りが少なければ襲う可能性も有りますよ。とも取れる尚記らしい言い方だ。誤解を招くような言い方をしている事を気にもせず、尚記は抱き支えた時に乱れた房子の着衣を直して行く。
「何処か痛い所ありますか?」
房子の周りをクルリと一周してから、最後に確認の質問をする。房子は首を横に振った。
傍らで出番が来るまで控えて立っていた八崎は、尚記と房子の一連の行動を見届けたあと、ここが出所と言わんばかりに「分かってるよ、キミが襲う訳ないでしょう」と尚記に慣れたように言い、
「はじめまして、八崎と言います」
房子に向かって正々堂々と言う表現をしたくなるような態度で挨拶をして来た。お辞儀の角度も分度器で測って合わせたように綺麗だ。
下げた頭を元の位置に戻しながら八崎は
「えーっと」
再び尚記と房子を交互に見て、紹介か挨拶を求める。
「あぁ、房子さんです」
八崎の故意に忙しなく動かしている視線に気付いて、尚記が房子を紹介する。
「こちらは会社でお世話になってる八崎さん」
続けて房子に八崎を紹介してくれた。八崎を紹介する瞬間、尚記は房子だけに分かるようように両眼をギュッと瞑った。要らない事は言うなよ?房子は無言の意思疎通を強いられた。
「どうも、房子です」
房子もお辞儀をしながら名前だけを名乗った。心の中では尚記の過剰な警戒心に拍手を送っている。
八崎が知りたいのは房子が何者であって、房子と尚記はどう言う関係なのか、であるはずだ。もしくは何故、二人はここに居るのか、など…ともかく房子の名前だけでは無いはずだ。なのに尚記は房子が余計な事を言うのを心配して、房子の名前だけで房子の全てが伝わるかのように紹介した。
八崎は調子が狂ったはずだ。現に八崎は房子から何かしら自己紹介があるものだと思って、名乗った房子の言葉の続きを待っている。
(言うものか、この女は好かん)
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