第44話

 二人は傘をさしていない。冬本番の時期に、ここら辺に降る雪は乾雪である事が多い。いわゆるパウダースノーと言うものだ。体の上に落ちて来ても、動いていればハラハラと更に落ちて行ってしまい、体に付着した部分で留まって、そこで溶けて体を濡らすと言う心配は、相当 長い時間 外で活動するのでなければ、する必要が無い。

 そもそも雪の日は滑って転んだ時の事を考えて、傘を持たずに動く事が多い。傘を持たずに出かける事は普通なので、普段通り二人は傘を持たずに出掛けた。流石に上着は撥水性の高いものである。だが、あいにく今日の雪は牡丹雪だった。水気が多く付着して、そのまま溶けて体を濡らす。黙っている間も房子の髪に牡丹状の雪は降り、溶けてその黒い髪を濡らして行った。

 房子が黙っている間、尚記も黙って八崎を思った。

 八崎の髪も黒い真っ直ぐな髪である。房子の髪のような量感は無いが。八崎の性格が反映されたような、毛先まで手入れの行き届いた謙虚で美しい黒髪だ。

 濡れて行く房子の髪を見ながら、尚記は不香の花と言うのだったか…それが黒髪の美しいさまを花に例えて表現した言葉だったのか、ヒラヒラと降るさまを花に例えた、雪の別称だったのか忘れたが、漠然とそんな言葉と共に八崎の事を心に描き出していた。

 それにしても、房子は黙し過ぎである。普段の房子を知っている尚記は、心配になって質問をつけたした。房子への心配は、それが自分の心を晒け出してしまう質問だと気が付かせなかった。

「房子さん、別に、泣くじゃなくてもいいんです。例えばこんな風に雪の降る光景を見て、思い出す誰かはいますか?そして、その誰かを思い出して、逢いたくなって切なくなったりしますか?」

 尚記は条件を沢五郎に絞らず、不特定多数の誰かにまで緩めた。緩めないと房子がなかなか答えてくれなさそうな予感がしたからである。

 房子は大きく溜息をついた。白い息が長く雪の合間を縫って上っていく。

「ヒサァ、何を期待してるぅ?」

「えっと…何か後学のためになる事を…」

 尚記は突然、質問の攻守が入れ替わり、自分の質問の出所を見失ってしまった。本来は房子が泣き崩れる所など想像出来ない事を端緒としていたが、質問した後は八崎に思いを馳せていた。

 そうして質問した所に、房子から見透かすような切り返しをされた。普段から房子に見透かされている気がしている尚記は、八崎の事を考えていたのが伝わってしまったのかと思い、必要以上に動揺した。

「例えば、雪の降る光景を一緒に見たい誰かはいますか?そしてその人が隣りに居ない事が切なくて、泣きたいくらい逢いたいと思う事はありますか?」

 房子がきっちりと標準語を使って、動揺している尚記に追い討ちをかけた。

「ちょっと強引だけど、あんたに当てはめたら、こんな感じの質問になるかね。そう思う誰かが居るから、してしまう質問やね。あんたはこれからキッチリ人を好きにならなきゃいけん。一緒に見たい誰かを思って狂ってしまっても良いと思うよ」

 房子はわざわざ立ち止まって、尚記と視線を交わしながらとどめを刺すように言った。

「中途半端じゃ、ずっと、キッチリ人を好きになれん。今の質問も恥ずかしがらずに、ちゃんと自分の事として喋れるようにしぃ。狂って見境がなくなれば、恥ずかしぃとも思わんようになるわ」

 そう言い終えて、房子は再び歩き出した。  

 やはり見透かされていた。長いこと黙っていたのは、思い出を探していた訳でも、照れ隠しの準備をしていた訳でもなく、尚記の心の内を計り、何をどのように伝えれば良いのか考えていたのかも知れない。

「あんたは狂って、みっともない部分を晒け出してフラれて傷つけ。ほしたら、次はきっと もっと大事な人を見つけられる思うよ」

「フラれるのは嫌ですね」

「あんたんが今、好きな人はフラれなきゃコトになろうが」

「あぁ、そうですね。諦めなきゃいけないですね」

「違う!フラれろ。諦めるな!」

 勢い良く振り向いたので、房子に積もっていた雪が、まるで房子の覇気に弾かれたかのように飛び散った。房子の言葉は普段から荒く、感情が昂ぶると比例して語気も激しくなる。けれども尚記は語気の激しさに、自分が大事に思われていることを感じる。

「房子さん……ありがとうございます」

「あ、ごめん」

「でも、この前は人のものに手を出してはいけないって、言ってませんでした?」

「そう、駄目。相手を苦しめる。まともな人なら苦しむ」

「じゃあ、なんで?」

「私は相手の女を知らん。ヒサとヒサの想い人を天秤にかけて、ヒサの為になる方を取ったんよ」

 房子は振り向きながら喋るのが億劫になったらしく、尚記の上着の肩口辺りを摘んで、自分の横まで尚記を引っ張った。

「あんたはどの道、地獄よ。でも、地獄を抜けた後マシなのは、無様にフラれる方だと思ったんよ」

「はぁ、無様に…」

「あんたは、たぶん格好つけ過ぎなんよ。ベロベロにチューして、歯垢の一つでも舐めさせて、口が臭いとか言われて、フラれておしまい」

 台無しである。房子はもうこれ以上、この雰囲気には耐えられないと言った風だった。尚記は眉間に皺を寄せつつも、笑ってしまった。笑いがおさまる頃に、既にフラれた事を伝えようと思っていたが、房子の方が尚記より数倍話し慣れている。笑い終える瞬間を見極めるのが上手かった。尚記は間を房子に取られた。

「良いよ。あんたが言う後学とやらのために、あの人との馴れ初めを話すわ。桜並木ん所までの暇つぶしにはなるっしょ。でも小噺の対価としておばさんの手を握って頂戴。手が冷えてしもた」

 手を差し出して来て、そのまま喋りはじめたので、尚記は伝える機会を逸してしまった。

 小噺としては壮大過ぎる二人の馴れ初めは、桜並木の道に着いても終わらなかった。二人の馴れ初めは…沢五郎の猛烈なアプローチは、ほぼ犯罪と言って良いものだった。

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