第43話
雪だ…
分かってはいたが、外に出て 降りしきる雪を見た尚記は、当たり前の事を改めて思った。食材を取りに行った時も、降る雪を見ていたはずだ。しかし、あの時はまだ八崎に感じた劣情の戸惑いを引きずっていたし、房子が突然、料理をすると言い出したのに困惑していた。ゆっくりと雪を堪能する気持ちでは無かったので、見ながらにして見ていなかったのだ。
雪だ…
尚記はすんなりと自分の内側に潜って行く。潜り切った一番奥底には雪が積もっているはずだ。幼い頃から一度も溶けた事のない雪だ。尚記は降る雪を見上げ、目を閉じようとした。
立ち止まると予想していたのだろう、見上げた途端に房子にお尻を叩かれた。
「行くよっ!ゆっくり見るのは桜と一緒に、それまでは止まらない!」
尚記は房子に手を引かれ、引きずられるように歩き出した。房子の手はやはり温かい。そして房子は止まらない。房子が泣き崩れて座り込んでいる姿など想像出来ない。この人は歩みを止めた事があるのだろうか?力強く房子に引っ張られながら、尚記はそんな疑問を抱いた。問うてみようかと思ったが、ひとまず当面の問題を解決しようとした。
「痛いよ、房子さん。お尻も腕も。ちゃんと歩くから離して下さい。恥ずかしいし」
「恥ずかしい?いい歳したオッサンが年甲斐もなく照れてんじゃないよ。しかも相手は母親みたいなもんでしょうよ」
「だから恥ずかしいんです。いい歳して、母親に手を引かれるなんて……」
房子は手を離す気は無さそうだ。
尚記の頭に新たな疑問が浮かんだ。
「ちょっと思ったんですけど、房子さんは、五郎さんと出かける時、手を繋いで歩くんですか?」
房子は手を離して振り向いた。けれど歩くのは止めない。すぐ前に向き直ってしまった。尚記からは房子の表情は見えないが、
「んだね。気分によっては繋ぐ時もあるっけね」
声だけで判断するなら、少しだけ照れているようだ。尚記は調子に乗って先程の疑問も混ぜた質問をしてみた。
「いまだに五郎さんを思って、泣きたい気持ちなったりとかしますか?」
「そりゃ、あるさぁ。あん人はギャンブル狂いやし…勝つけど、いっ時でもいきなり生活費がまるまる無くなっとうたら、こっちの目が丸くなってしまう」
「なるほど、で、目を三角にしてあんなに喧嘩するわけですね」
尚記は沢五郎と房子が、沢五郎の賭け癖が原因で喧嘩しているのを何度も見ている。ただ、はたから見ていると途中からは漫才のようであった。
「おっ、ヒサァ、成長したねぇ」
房子は尚記の切り返しに喜んで、小馬鹿にしたように笑った。小馬鹿にしても不愉快に思われない、養育者の特権である。
不愉快では無いが、尚記は話の流れが変わってしまうのが嫌で、房子からの愛ある嘲笑を一旦流した。
「そうじゃなくて、そう言う泣かされるじゃなくて…こう、逢いたいのに逢えなくて、好きなのに、もどかしいような…」
尚記が上手く伝えられないでいると、
「えぇ、結婚してから?」
房子は尚記の言いたい事が伝わったのか、伝わっていないのか分からないが、尚記が言い終わるより先に、そのように質問して来た。
尚記は逡巡した。
「えっと、どっちでも良いです」
結婚前なら、あって当たり前な気がしたが、この際どちらでも良かった。沢五郎と房子の艶っぽい話を聞く事自体が稀である。
房子は少し考えているようだ。それは、そう言った思い出があるかどうか探しているようでもあり、もしくは、尚記に話す時に照れずに話す 心の準備をしているようでもあった。
沈黙は尚記の予想より長く続いた。
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