第41話

 これが二年前の八月二十四日の出来事である。後から手に入れた情報によると、部屋の住人は宮之島みやのしま 久江ひさえと言う人だった。この人もこの火事で亡くなった。裕記は子供部屋と思しき所で、宮之島久江はキッチンで。間取りの上では別の部屋だが、二人はアパートの同じ一室で亡くなったのだ。

 裕記が死ぬ間際、尚記に預けた子供は宮乃島久江の子供だった。母子家庭だったらしく、火事のあと施設に引き渡されたらしい。積極的に調べようと思わなかったせいもあるが、それ以上の事は分からなかった。

 いったいこの三人はどう言う関係だったのだろう?

 沢五郎や房子は何の関係も無かったのだろうと言う、裕記の正義感が爆発して、通り過がりに人助けをしたのだろうと…たぶん沢五郎と房子はショックで色々と考えたく無いのだと思う。離婚して独りやもめの裕記と、母子家庭の組み合わせ。想像出来る事は色々あるが、息子のように育てた裕記が逝った後に考えるような内容ではない。


 しかし尚記は目の前であの光景を見せられている。どうしても考えてしまう。何の関係も無い人間に対して、その身を焼いても悔いが無い と言うのは無理があるし、関係があったとしても果たして…自分は飛び込んでいけるだろうか?

 八崎、房子、沢五郎。尚記はいま生きている大事な人達の顔を思い浮かべ、同時に裕記の焦げて行く腕を思い出す。相当な覚悟をしても一歩を踏み出せる自信が無い。

 裕記に死への恐怖を超える何かを与え、あのような行動を取らせた久江とは、いったい弟にとってどんな人だったのだろう?

 裕記の、日記では無いが、備忘録ではしっくりこない。何と呼べば良いのか持て余すノート。手記のような物を読み解けば、尚記の疑問も解けてくれるだろうか?

 

 尚記は房子が料理をしてくれている間、八月二十四日に近い、一番新しい日付の記実を探していた。それが裕記が生きている最後に記した文章だろう。何か手掛かりになれば良いのだが…もしかしたら書いてある事は全然関係の無い、夕飯の感想とか、その日見たTVの事かも知れない。裕記なら有り得そうだ。

 尚記は「あいつめ」と言う心づもりをして、ノートの整理を始めた。


 黒飴がかまって欲しそうにこちらを見ている。ダンボールの中の隙間から、目を光らせて尚記を見ている黒飴を見て、尚記は有名なゲームを遊んでいる気分を味わった。

 裕記の死は衝撃だったが、尚記はケンとハナの死ほどその死を引きずる事は無かった。あの時、「行くな」と伝えられなかった事は後悔しているが、後悔するたびに、

「尚記は言いたい事を、言いたい時に言わないからダメなんだよ。鍛え方が足りないんだ」

 そんな風に記憶の中の裕記に諭された。

「尚記は鍛え方が足りない」は裕記の口癖だった。裕記からすると、尚記の失敗の原因は全て鍛え方の問題らしかった。

 それに対して尚記は「バカなやつめ、脳筋が」 昔も今も裕記を小突いて返した。

 裕記は亡くなってからも時々 日常の隙間に影の無い姿を立ち顕した。それでもケンとハナの幻影と違って、尚記は感傷的になる事がなかった。感傷的になっても、結局 最後は裕記に「感傷的になるのは鍛え方が足りないんだ」と言われ、言われた時はいつも軽口で答えながら小突き返す。軽口で答える事で、重く沈んだ気持ちにならずに済んでいた。

 そうすると、弟はそうやって亡くなった後も尚記の心の気遣いをしてくれているのだと思い、やはり、

「バカなやつめ、そんな気遣いが出来るなら、生きておけ」

 泣き笑うように、幻の裕記を小突いた。小突くと裕記はあの時のように親指を立て、笑って消えた。

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