第40話
尚記は咄嗟に裕記を呼んだ。尚記の声は届いたようだが、尚記が何処に居るか分からないようだ。
「トウ!こっちだ!」
尚記は自分から走り寄って行く。
裕記はこんな時なのに尚記を見て、爽やかにニカっと笑った。顔が煤けていたので、白い歯とのコントラストが強くなって、一層爽やかに見える。
「おぅ、尚記。久しぶり。この子ちょっと預けるわ」
裕記は状況を理解出来ない尚記に少年を預け、踵を返して戻って行った。
「バッ…おい!」
子供を見ると、色々と煤けてはいたが火傷はしていないようだった。中学生くらいだろうか。息はあり、ぐったりとしている。短く刈り込まれた髪は、地毛なのか、美しい金色だ。所々 灰を被ってしまっている。
気絶しているのかも知れない。尚記に受け渡された後も、目は閉じたままだ。目尻から流れた涙の部分だけ、一直線に煤が洗い流されている。
尚記はほとんど迷う事なく少年を壁にもたれかけるように座らせ、裕記の後を追った。
そのアパートは四階建てで、各部屋に行くには建物内の廊下を通っていかねばならないタイプのアパートだった。雨が降ったら鉄製のタラップのような階段が小気味良く雨音を響かせ、酷い時は部屋に着くまでに半身がずぶ濡れになってしまう裕記の安いアパートとは大違いだ。
造りがしっかりしているのだろう、防火性の素材や密閉性の高い建築方法の壁や天井は延焼を立派に防いでいた。しかしそのおかげで、と言うか、そのせいで二階の廊下は、煙突の中はきっとこんな風なのだろう、と思わせるくらい煙で充満していた。尚記はTシャツをたくし上げて口と鼻を覆い、裕記の走っている足音が聞こえる方に腰を屈めて走り出した。
火事が起きている部屋はすぐに分かった。
少し開いた扉から煙りが出でいる。その前に裕記が立っている。裕記は少しだけ開いた扉の隙間を気にしているようだ。上から下まで隙間の幅を確認した後、躊躇うことなく扉を開けた。
「裕記っ!」
尚記は素人考えでバックドラフトのような現象が起こるのではないかと思い、思わず叫んでしまった。爆発のような現象はおきなかったが、それでも今まで以上に大量の煙と、炎の赤い舌がチロチロと廊下まで伸びて来るのが見て取れた。裕記は熱気と煙をモロに浴びたはずだが微動だにせず、尚記を見て、
「なんだ尚記、付いて来ちゃったのか。あの子は大丈夫なんだろうな?」
尚記は煙で喋るのがやっとなのに、裕記は普通に喋る。
「裕記…お前…なにやっ……」
「尚記、俺行くわ」
裕記は親指を立てて笑って見せた。
尚記は熱くてそれ以上、裕記に近づけない。尚記の位置から部屋の中の様子は見えなかったが、既に火の海になっていると推測できた。裕記の親指を立てて見せた腕の皮膚は、真っ赤に染まり水膨れのような物が、後から後からプツプツと湧き上がるそばから破けて行く。Tシャツの裾は燃え始めていた。
「馬鹿!」
尚記が弟に掛けた最後の言葉である。
尚記は本当は「行くな!」と言おうとしたのに……何故か実の弟に、行って欲しくない気持ちが知られてしまうのに抵抗があって、素直に「行くな!」と言えなかった。
その瞬間、ケンに「逢いたい」と言えなかった時の後悔が蘇り、あらためて声を発するために息を吸ったが、煙を呑んで噎せるばかりだった。
裕記は「お邪魔します」とでも言うように、事も無げに炎が渦巻く部屋に入って行ってしまった。
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