第37話

 訪問者は房子だった。

「ヒサァ、入れてぇ。雪が降って来たっけよう」

 困ってる割には声が明るい。季節外れの雪にテンションが上がっているようだ。インターホンからの房子の声に黒飴が反応した。

 房子は尚記の部屋の鍵を持っていたが、尚記がいる時は必ずインターホンを押した。尚記が居ない時でも部屋に入る時は、尚記に部屋に入る旨の連絡を入れてから入った。

 黒飴は房子によく懐いた。房子の事が好きなようだ。好きな人には自分から寄って行き、喉をゴロゴロと鳴らして顔や体を擦り付ける。今もインターホンからの声を聞いただけで喉を鳴らし始めた。好きでも嫌いでも無い人の場合は、大人しく撫でさせはするが、自ら近寄ったりはしない。嫌いな人には体を触らせない。触ろうとすると牙を剥いて「触るな!」 威嚇の声を発する。沢五郎は嫌われた。高い高いされたのがトラウマになったのだろう。

 予定外の房子の登場で、尚記は寂しさから解放された。雪は本格的に降り始めたが、尚記の部屋は日が差したように明るくなった。房子のテンションは高かったので晴れた上に虹が出たような雰囲気である。

 尚記は房子が羨ましい。いつも明るく単純明快に見える。房子の個人的な性格によるものなのだろうか、それとも母親とは押し並べてこう言うものなのだろうか。出迎えた黒飴を抱っこして房子は、

「黒飴ぇ。久しぶりぃ。アメアメアメちゃーん、だけんども、今日は雪さぁ。雪が降ってるさぁ。ネコは炬燵で丸くならねばいけねぇ」

 尚記の部屋に炬燵は無い。房子は部屋を見回し、

「なぁにぃ。あんた結局、こんなちっさなヒーターで越冬したのかい?私の為に炬燵は買うてくれなかったね…しかし本当に何も無くなってしもうた」

 元々、男の部屋にしては綺麗だった尚記の部屋は、ほとんど何も無くなっていた。黒飴の為に片付けたのだろうが、房子はなんだか危うく思えてしまう。生活感が無いのだ。本当にこの部屋で生きている人はいるのか不安になってしまう。房子は黒飴を撫でた。黒飴は温かく、確かに生きている。

 

 裕記が無くなった直後、房子も裕記の死にショックを受けたが、それ以上に尚記も逝ってしまうのでは無いかと心配した。尚記を心配する事で心を支えた。だが、杞憂だったのかも知れない。尚記は死に慣れてしまっているように見えた。

 この子は大切な人を失い過ぎている。きっとこの子は違う価値観で世界を見ている。

 房子は尚記と裕記を引き取ってから、だいぶ早い段階で理解者たろうとする事を諦めていた。房子自身の価値観がまともかと言えば、房子は「私は常識的でまともだ」そう言える自信は無かった。だが、集団の中で自分を無理なく主張しつつ、周囲に合わせて上手くやって行く自信はある。

 尚記と裕記は違った。房子が育てたようなものだが、何と言うか、こちらが意図した入力とは違う形で出力が返ってきた。これは沢五郎の言葉だが、「あの子達はモニターにAを表示するつもりで、キーボードのAを押すと、シャットダウンするからな。OSがまるで違うんだ。それくらいの気持ちで接してやってくれ」

 房子はパソコンに詳しくない。沢五郎の比喩は馴染めなかったが、二人と接してみてすぐに沢五郎が何を言いたかったか分かった。

アクセルを踏むと止まる、ブレーキを踏むと加速する。ならまだ良かった。何となく規則性が見つけられそうな気がする。この子達、特に尚記の方が顕著だったが、こちらがアクセルを踏むと、二人はボンネットを開いて見せた。

 房子は二人の理解者にはなれない事を悟り、その代わりに二人には理解者が居なくても生きて行けるように、誰に理解されなくても、人と違うその心は稀少な故に大切にしなければならない物だ。そう教えて来たつもりだ。

 房子から見ると兄弟のうち尚記の方が内向的で繊細だった。裕記も内向的な面は多分にあったが、活発でよく行動した。女友達も沢山連れて来た。尚記は40歳を超えて未だ独身だ。最近では珍しく無くなったとは言え、その人達は独身でいる生涯設計を立てた上で独身でいるのだろう。尚記の場合、独身でいる理由が不安なのだ。独身でいようと決めた訳でも無く、特に理由も無さそうに独りでいるのが不安だった。しかも最近、心に宿った人は既婚者だと言う。人を好きになるにはなるが、その先を考えていないように見えてしまう。

 弟の裕記は離婚したとは言え、一度は結婚して10年は続いた。だから何だと言うわけでは無いが、少なくとも裕記は他人と一緒に生活が出来る心のゆとり、朗らかさがある。

 尚記も穏やかだ。声を荒げる事は滅多に無い。しかし房子からすると、その穏やかさは極めて微妙なバランスの上で保たれているように見える。穏やかでいる事を維持する為に、とても気を張っているように見える。尚記が一生懸命バランスを保って生活している中に、他人がはいり込む余地は無いだろう。

 房子はそう考えて思い直した。

 尚記は心の余地の部分にしか他人を招き入れないだろう。それでは彼女になるは余りにも寂し過ぎる。女性である房子はそう思った。

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