第36話

 持て余す八崎への想いの理由を考えていて尚記は気が付いた。そう言えばこれまで、自分から人を好きになった事は一度しか無かった。八崎で二人目か。

 一人目は一目惚れだったが、結局その女性に想いを伝える事は無く、付き合う事もなかった。なので尚記が付き合って来たのは全て、相手に好きになってもらい、相手の気持ちを受け入れた形によって始まる付き合いだった。

 尚記は生まれて初めての告白を既婚者にした事になる。

 

 八崎と出会った時 尚記は何も思わなかった。出会った時の記憶が曖昧なので、何の興味も持たなかったのだと思う。ただ目の前に事務員がいて、尚記にとっては必要な事務手続きをこなしてくれる人だった。人で無しな言い方をするなら発券機のように思っていた。

 年に一度、車両通行許可証を発行する為に尚記は八崎と…発行手続きをしてくれる事務員と会う機会があった。

 尚記が免許を取ったのは30代に入り何年か過ぎた後だった。車に全く興味が無く、車の任意保険は任意なんだから入らなくても良いだろうと思っていたくらいだ。入らなくても罪に問われる事はないが、会社は通行許可証を発行しない方針であった。

 初めて通行許可証を取る時、

「沢田さん、任意保険にご加入頂かないと、通行許可証が発行出来ませんよ?」

 そう言ったのはたぶん八崎だったと思う。

その時は車以上に、対応してくれる事務員に興味が無かったので覚えていない。

「なぜ?」

 尚記はそう問い返した。

普通の事務員なら「会社の規則ですから」で済ませそうな物だが、その事務員は丁寧に説明して尚記を納得させた。だから八崎だったのでは無いかと思うのだ。

「沢田さんは絶対に事故を起こさない自信がありますか?沢田さんが起こさなくても、他人の不注意で起こる事故を回避出来る自信がありますか?」

 それから八崎だと思われる事務員は、事故が起きた時に自賠責保険だけでは保障が間に合わない事を説明し、不足している保険だけに入っている人には、通行許可証が発行出来ないという流れで尚記に説明してくれた。

 その事務員が八崎だとしたら、少し丁寧に説明をしてくれる発券機。初めての印象はその程度だ。

 そう考えて、尚記はなぜ、そしていつ、八崎を好きになったのか記憶を辿ろうとして、記憶を手繰る時の癖で遠くを見た。窓の外ではいよいよ雪が降って来ていた。

 雪だ、やはり雪がある。尚記が雪を感じたとき、インターホンが鳴った

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