第35話
黒飴に相手にしてもらえなかったので、尚記はなんだか独りでいる事が無性に寂しくなった。同時に八崎に逢いたい想いが強烈に込み上げてきた。
『逢いたい』
この涙が出そうになるほどの想いを何と呼べば良いのだろう?今までに経験した事が無い強い感情だった。初めての感情に相応しい言葉を尚記は自分の中に探したが見つけられない。そこには尚記の強い感情とは、かけ離れたように思える「雪」があり、言葉はその雪のした深く眠ってしまっている。
黒飴を拾ってから数日後、尚記は自分の気持ちを八崎に伝えていた。その時も自分の気持ちを「好き」と呼ぶのかどうか分らなくて、婉曲な言い回しをしてしまった。
「あなたの事を大切に思うんです」
自分の気持ちを言い表すには程遠かったが、尚記の気持ちを言い顕せられる精一杯の表現だった。
「えっ?それは好きって事?」
八崎は婉曲だった表現を率直に言い直した。率直に言い直された事で尚記の気持ちとは、かけ離れてしまったが、尚記は他に言葉を持たない。頷くより他に仕方なかった。
「ないないない、だって私、結婚しているもの」
尚記は「結婚していなければチャンスはあったって事ですか?」そう聞きそうになったが、それも「ないないない」と三回も否定されたら挫けてしまいそうだった。
「分かってます。気持ちを伝えずに後悔するのが嫌だったんです。困らせてすいません」
謝る事で会話を終わらせようとした。
八崎は強く否定した事を申し訳なく思ったのか「気持ちは嬉しいけど…」尚記の好きな困った表情をして、足の力が抜けたように尚記の前の椅子に座った。
そこまで思い出した時、突然頬に冷たい風が触れた。先ほど開けた窓がそのままで、そこから時期外れの冬が入って来ている。黒飴が居なくなった窓辺は空疎で、もの悲しかった。もとから八崎は居なかったのに、何かしら大切な物を失ったようにカーテンが虚に揺れている。
この部屋の窓辺に八崎が立っていた事など無いのに、尚記は八崎が窓辺に立っていた思い出を辿るかのように、窓の近くに寄ってガラス戸を閉めた。
窓辺に近づくと、もう一度、八崎を背後から抱きしめる場面が思い起こされたが、八崎を抱きしめているのは尚記では無くて、顔の知らない八崎の旦那であった。その時、尚記は生まれて初めて味わう激しい劣情が体に走ったのを感じた。
こちらも今までに経験した事が無い強い感情だったが、尚記は…尚記の肉体はこれが劣情である事を尚記に教えてくれた。
劣情は走り抜けず、尚記の中で周回して尚記を掻き乱す。尚記はしばらく動けなかった。
誰かに嫉妬をすると言うのも、こんなに明確に味わったのは久しぶりだった。今まで付き合ってきた女性は何人かいたが、付き合った女性の近くに、たとえ寄り添うように異性が居ても、このような嫉妬をした事は無かった。
別にその女性達と適当な気持ちで付き合っていた訳では無い。尚記の中では出来得るかぎり、皆と誠実に向き合って来たと思っている。ただ尚記はそもそも淡白で独占欲が少ない。今、生まれて初めて味わった激しい劣情や嫉妬が、愛に拠るものだと言って良いならば、今まで付き合って来た女性に対して感じていた愛は、黒飴を愛しく思う気持ちと同じようなものだったのかも知れない。
穏やかで居心地の良い愛。女性達は皆、穏やかなだけでは物足りなくなってしまったのか、尚記の元から離れて行ってしまった。
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