第27話
早退した足で、子ネコを連れたまま尚記は沢五郎家へ向かった。
沢田 五郎、尚記の父親の弟。尚記の叔父。
尚記と裕記の兄弟は小さい頃に両親を交通事故で亡くした。沢五郎夫妻は小さい息子を交通事故で亡くした。
沢五郎は、息子を一人失ったら、二人になって帰ってきた。剛毅に笑って、当然のように二人を引き取った。養子にはなっていない。
沢五郎の奥さんは房子と言った。ひとり息子を失ったこの人の気持ちが、尚記と裕記を養子として迎えいれるのを拒絶した。
「あんたら二人は、それはもう可愛くて、可愛くて、いたずらで、ドジで、甘えんぼで、毎日が楽しくて、あの子を亡くした悲しみなんか、あっと言う間に何処かさに行てもうたよ。だから、あんたらを養子に迎えてしまったら、本当にあの子の事を忘れてしまうんじゃないか、思ってな」
裕記が成人した日、お酒を飲みながら房子は養子に出来なかった理由を、二人にそう話した。養子にしない房子の事を二人は不信に思っているのではないか?房子は後ろめたい思いを、区切りの良い日に降ろしてしまいたかったらしい。
尚記はそんな話しを聞かなくても、房子には引き取られたその日から全幅の信頼を置いていた。
沢五郎に連れられ初めてこの家に来た日、「今日からお前等の家だ」そう言って、沢五郎が玄関の引き戸を開けると、房子が上がり框の前で正座をしていた。
「おう、房子、こっちが尚記でこっちが裕記だ」
初対面では無かったが、沢五郎が形式的に二人をそう紹介して、尚記と裕記が何も言わずお辞儀をすると、房子は声を張って宣言した。
「あんたら二人を実の子供のように愛せるかは、よう分からん。でも絶対に幸せにしてやるから安心し」
尚記はそこでやっと両親を失った不安から解放され、涙ぐみながら「よろしくお願いします」と言い、裕記は房子の覇気が伝播したのか、
「おばさんが、愛してくれなくても、俺がおばさんを愛してやるから安心し!」
元気いっぱい、空っぽの頭に言葉が響き渡っているかのように答えた。
房子は笑って「母ちゃんじゃ」と言いながら、片手で裕記の頭をグシャグシャと撫で、もう片方の手でそっと尚記の頭を自分の肩に引き寄せた。
尚記がネコを連れて沢五郎の家に着いたとき、主人の姿は無かった、代わりに主人より偉い房子が尚記を出迎えた。房子は尚記の顔を見るなりこう言った。
「ちぃとも顔を出さんと思うてたら、なんも連絡せんと突然きて、あんたんとこは皆、死にやすいから、あんたもくたばったかと思うてたよ」
尚記は頭をしたたかに叩かれた。軽口を言っているが、裕記が亡くなった時、一番悲しんだのは房子であったと思う。
「五郎さんは?」
「何しに来たん?」
ここでは房子が中心である。房子が質問した以上、たとえ尚記が先に質問したのであっても、尚記は房子の質問に答えなければならない。
尚記は裕記の持ち物の中に、ネコを飼う為のあれこれが無かったか聞いてみた。
「はぁ!あんたもネコ飼うんかい?あぁ、こりゃもう駄目だ。その歳で可愛いネコちゃんなんか飼いだしたら、こりゃもう絶対、結婚なんか出来ないわ。わたしはねぇ、可愛い赤ちゃんが見たいの。ネコちゃんじゃなくて…」
房子はダミ声でそこまで言って、尚記の上着の胸元から顔を出した子ネコに気付いた。
「あら、可愛いネコちゃんねぇ」
今度はネコ撫で声で、あっと言う間に尚記から抱きあげる。
「どうしたのぉ?ママはぁ?お腹は空いてるぅ?どこにいたのぉ?仕事じゃないのぉ?」
どこまでが子ネコへの質問で、どこからが尚記への質問なのか分かりくい。
「病院はぁ?あんたのお腹はぁ?」
房子は調子を変える事なく、返事など期待していないのだろう、歌うように質問を重ねながら、子ネコを台所へ攫って行った。尚記も靴を揃えてから房子の後について行った。
この家は何故かいつも新木の香りがする。
尚記が台所に入ると、房子は土鍋の中に布巾を何枚が敷いている、その中で子ネコを寝かしつけるつもりなのだろう。
「あの人はぁ♪パチンコよぉ♫」
歌ってるような調子が気に入ったらしい。
てっきりこちらの質問なんか聞いていないのかと思っていたら、しっかり聞いていた。
「房子さん」
呼びかけたきり尚記は、何も言えず房子を見ているだけだ。
本当は先ほど房子が何気なく言った、「赤ちゃんが見たいの」を注意しようと思ったのだが、房子は実の息子を小さい頃に亡くしたのち、子供を授かれない体になった。その言葉に苦しむ人がいる事を身を持って知っているはずだ。
尚記は迷った。房子も尚記と一緒で思ったことは口にする気質だ。房子の気質に尚記が影響されたのかも知れない。二人とも思った事は口にするが、かと言って誰彼構わず言っている訳ではない。特に尚記は自分の性分を知っているので、そもそも誰彼構わず話しをする訳ではない。しかし房子は尚記と違って、誰とでも、よく喋る。
先ほどの言葉が、本当の意味で何も考えずに口に出した一言なら、それは注意をしなければならないと思うのだが、しかし…
尚記は自分の注意が、房子の「赤ちゃんが見たいの」それと同じくらい、繊細な物であると感じていた。注意するなら房子の傷に触れる覚悟をしなければならない。
黙っている尚記に痺れを切らしたように、房子が声を上げる。
「気ぃにし過ぎや、ちぃと見ぬまに他人にでもなったんか?ヒサにしか言わん。
ヒサだから言うたんよ。ヒサも遠慮無く、物もうせ」
房子は優しく子ネコを土鍋の中に座らせた。
そこまで分かっているなら、分かられているなら。何も言う事はない。尚記も黙って椅子に座った。
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