第28話
房子がゆっくりと子ネコを撫でると、子ネコは土鍋の中で落ち着いた。
「お腹、空いてますね。なんか有ります?」
結局、尚記は昼休み中ずっと、子ネコがどうしたら退社するまで安全に過ごせるか思案し、ダンボールの仮住まいを改良したり、どこかに隠して置いておける良い場所はないか探したりしていたので、お昼を食べ損ねた。お昼を抜いて頑張ったが、どうにもならなさそうだったので早退した。
房子は冷蔵庫の前で一回転してから、扉をガバッと開けた。尚記が久しぶりに帰ってきたから、テンションが高い訳ではない。多少の影響はあるかも知れないが、尚記の知っている限り房子はいつもこうであった。房子はこの家の中心であり、温もりの源でもあった。
冷蔵庫の中の昨晩の冷えたお好み焼きを、房子はレンジで温め直してくれている。その間に二人分の紅茶を入れてキッチンテーブルを挟んで、尚記の前に座った。
「元気?」
あらためて聞かれて、尚記は面食らったが、
「はい、元気ですよ。房子さんはいつも元気ですね」
土鍋の中の子ネコを見ながら答えた。
房子は今年60くらいになる筈だが、瑞々しく美しい。染めているのかいないのか、真っ直ぐに伸びた髪は黒く、いつまでも奢りの春のまま、かき上げる都度、黒い花の花弁にも見える、その髪の香りを艶やかに漂わせた。
房子は喋らなければ美しい。
子ネコを見ていたせいか、先ほど房子が「わたしは赤ちゃんが見たいの」と言っていたことを思い出し、
「結婚するなら、房子さんみたいな人がいいですね」
この家の温もりが何処から来るのかを、あらためて感じながら言った。
房子は変な声を出して笑った。
「ンハッ、嬉しいこと言ってくれるねぇ、この子は、でもこんなババァじゃ先立たれて寂しい思いするよ」
「あ、ババァは嫌です。もっと若い房子さんです。若い頃の房子さんです」
「ハッ!憎たらしいこと言ってくれるねぇこのガキは、でも若いと、この味は出ないんだよ。ババァにならないとね」
チーンと良いところで電子レンジが鳴った。その音に子ネコの耳がピクリと動いたが、起きる様子は無かった。
尚記はお好み焼きを取りに行こうと立ちかけたが「いいから、座り」と房子に制され、ホットケーキのように重なったお好み焼きを出してもらった。
「今だに四人分の分量で作っちゃうよ」
出しながら房子は言って、今度は尚記の隣に座った。
尚記はなんと言って良いか分からない。自分が出て行ったことで寂しい思いをさせたなら、スミマセンと言えるが、沢五郎も房子も、早く独り立ちした姿を見たかったのでは無いだろうか?
それには、いつ迄もこの家に厄介になっている訳にはいかない。そうした理由で家を出たと言う意識も尚記の中にはあった。沢五郎と房子の期待に応える形で家を出たのだから、スミマセンは変な気がする。
裕記の事については、尚記が謝ったら房子は怒るだろう。迷っていても仕方ないので、尚記はなんとなく会話の受け答えになっていそうな事を言った。
「勿体ないからって、無理して全部食べないで下さいよ?歳と共に消化機能だって落ちるんだから」
「たまにお前が、残飯あさりに帰って来りゃればいい」
尚記は房子が何処の出身か知らない。房子に聞いても分からないと言う。沢五郎に聞くと、アレは国産だと言ってはぐらかされる。
「で、そんな事より、どうなのさ?」
房子は小指で、お好み焼きを切り分けている尚記の手の甲を突いた。
「いませんよ」
「なぁんだよ、シャキッとせんねぇ。もしかしたらアレなのかい?コレなのかい?」
今度は親指で尚記の手の甲を突いた。
房子はケンの事を知らない。知らないとは言え、房子とは言え、尚記は良い気がしなかった。
「あぁ、ゴメンゴメン。しっかし、あんたは誰も連れて来んね。ヒロは高校入ったあたりから、派手なんから地味ぃぃなんまで連れて来てたけど」
尚記は何も言ってないのに、房子は尚記の不機嫌さに気付いて謝り、尚記はその事を不思議に思わない。
「はぁ〜、おもろない」
腕を前に伸ばして、突っ伏しながら房子は何か面白いことを求めるように、前に伸ばした腕をバタバタさせた。
別に尚記の事を煽っている訳ではないだろう。尚記も房子のこう言う態度は不愉快ではない。むしろ楽しい。
しかし房子には何かしらオモチャを与えなければ、ずっとこの調子でやり続けられる。房子はいつも何か面白い事を探している。単調な生活の繰り返しでは房子の湧き上がる活力を消費し切れないのだろう。
尚記は何か手ごろな話題は無いか探したが、見つけられず持っていた一枚のカードを差し出した。
「好きな人なら出来ましたよ」
「えっ⁈ほんとう?連れ込んだ?」
色々と手順を飛ばしていて、質問がおかしい。
「結婚してました」
「えっ⁈えっー⁈やるねぇ!男になったねぇ!」
房子は本当に嬉しそうだ。
「でも駄目だよ。人のものに手を出しちゃ駄目だ」
「分かってますよ」
尚記は房子にカードを見せた事をちょっと後悔した。
房子は少しのあいだ尚記を見守ったが、尚記が黙っていたので、
「なぁにぃ、いっちょ前に辛いの?」
尚記の表情は他人が見たら辛いかどうかなど分からない。房子はツルッとした尚記の額を撫でるようして、前髪に指を入れてから雑に頭を撫でた。
房子に辛いのかを問われて、尚記は自分の想いは叶わない事をしっかりと浮き彫りにされた。
今までは八崎の事を想ったり、話しをしたりして、優しい気持ちになったりドキドキしたり、それだけで心が満たされて、その先の事を考えることは余り無かったが、このまま想い続けていても良い未来は待っていないのだ。例え八崎が尚記の気持ちに応えてくれたとしても、幸せな未来は待っていないのだ。
「辛いんだったら相手するから、死ぬのだけはよしておくれよ」
房子は真っ直ぐに自分の気持ちを尚記に伝える。
「大丈夫ですよ……髪の毛がお好み焼きに落ちます」
尚記は撫でられるままに、頭をひとつも動かさずに言った。房子はひとしきり房子自身が満足するまで、尚記の頭を撫で、それからお好み焼きの上を確認した。お好み焼きの上には何も落ちて無かったが、房子は一番上のお好み焼きを手で摘んで取って、ペロリと一口にたいらげた。そしてまたペロリと舌で唇を舐めて、
「ここは…」
そう言って、尚記と房子を交互に指差して、
「血は繋がってないから、なんなら私が相手になってあげ」
房子は「相手」と発音する時に、先ほど死んでくれるなと言う時に発音した「相手」とは違い、意味深に色の付いた声を使った。
尚記は房子の語尾を喰いちぎって、
「嫌ですよ!バカですか⁈どこの星の励まし方ですか!」
思わず普段より大きな声を出して、房子を制した。
大きな声は柏手のようなものだ、気が払われる。房子はそれを狙ったのだろう。房子の満足気で闊達な笑い声は、更に気を循環させて行く。
声を普段のボリュームに戻して、
「だいたい房子さんも、五郎さんのものでしょうが」
お腹は満ちていたが、手を動かしていたかった尚記は、お好み焼きの二枚目に箸をつけながら言った。
「あぁ〜っ、んん〜?」
面白かったわぁ、と言う風に目尻を拭きながら房子は
「そうだけど、あんたん物でもあるよ?小さい頃からそうだったろうにぃ。全身全霊を捧げたさ」
また、尚記の前髪をグシャグシャと乱し、房子は少なくなった二人の紅茶を注ぎ足すために席を立った。その背中を見ながら尚記は小さい頃を思い出した。
浮かんでくるのは小学生の頃、裕記と連れ立って下校すると、時どき両腕を広げて満面の笑みを浮かべ、玄関先で二人を待ってくれていた房子の姿だ。尚記と裕記は房子の姿が玄関先にある日は、目を合わせてから一直線に房子に向かって駆けて行き、そして体を預けるように房子に飛び込んだ。
房子はいつもしっかりと二人を抱きしめた。その時だけに限らず、辛い時も楽しい時も、そして何でも無い時も、確かに房子はいつも全身全霊で二人を受け止めてくれていた。
目頭が熱くなって来た尚記は、房子が戻って来ないうちに、目頭を冷やす為に別の事を考えねばならなかった。
尚記はお好み焼きを二枚食べ終えたのに、二枚残っているのに気付き、これ幸いとばかりに思考を切り替えた。
このお好み焼き、四人分の分量の一人分が、そもそも間違っているんじゃないだろうか?
確かに裕記は脳みそが筋肉で出来ているような男だったので、よく食べた。沢五郎も体格はそれほど大きくないが、職業柄、鍛えられた体はその分のエネルギーを欲するように食料を求めた。房子が普通よりも多い分量で1人分を作ってしまうとしても、昨晩の食べ残しでこの量なら多過ぎる。
これは本当は昨夜の食べ残しじゃなくて、新しく二人のお昼として作られた物だったのかな?尚記がもしかして、そう言おうとした時、玄関をガラガラと開ける音が聞こえ、
「おうい、房子ぉ」
沢五郎がただいまの挨拶をした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます