第25話
1分から2分しか経っていないが、気を落ち着けた八崎の元へ尚記が小走りで戻ってきた。手には折り畳まれたダンボールやら、タオルやらを持っている。八崎がどん詰まりだと思っていたのは目の錯覚で、そこは段違いに生垣が作られており、近づけば人ひとり通れるくらいの幅の道が、横に続いていた事が分かった。その先には倉庫があった。
戻って来ると尚記は ネコ型のロボットが道具を取り出す時のような効果音を口にしてから「ボクの隠し道具です」と言って、折り畳まれたダンボールを箱状にしていった。
取り敢えずの仮の住まいと言ったところだろう。八崎は尚記に子ネコを手渡して、なおも拭い切れない疑念を持って、尚記の様子を見ていた。
これが取り敢えずの応急処置的な対応である事は見て分かるし、その為にはF棟裏の倉庫にある、どうやら尚記が無断で溜め込んでいるアイテムが必要だったので、ここに来た事も分かった。
「で、どうするの?まさかここで飼う訳じゃないでしょうね?」
ここで飼うと言う選択肢を潰しつつ、八崎は尚記に疑念をぶつけた。
「まさか」
尚記が失笑しながら答える。
気が落ち着いていた八崎は、
「キミは、そのまさかをしそうなんだよ。わたしはここで飼うなんて発想はしないし、キミに失笑される覚えは無いよ。こんなバカな発想をさせるのは、キミが原因なんだよ」
すぐに言い返す事は出来たが、言葉を重ねるほど何かが溜まっていき、最後には溜まった鬱憤を晴らすかのようになった。
尚記はちょっとたじろいだ様子だったが、すぐにヘラっと笑って、
「自分が飼います」
子ネコの耳と耳の間を人差し指で、チョコチョコと、くすぐるように撫でた。
自分で飼う事を宣言した尚記だが、八崎はそれでもまだ不安が残った。どこで飼うかが問題なのだ。そこまで明確にする為に、問い詰めようか迷っていると、尚記が察したように自宅で飼うと言う事を付け加え、でも退社するまでの間は抱っこして仕事をする訳にも行かないので、ここに役立ちそうな物を取りに来たのだ、と説明されずとも分かった事を今更ながら八崎に説明してきた。
八崎は深く深く、その名の通り深呼吸をした。
「そう、分かったわ、じゃあ呉々も逃がさないように気を付けてね。この辺は車両の通りが多いから。もう時間が無いから、行くよ?」
「あぁ、待って下さい」
「本当に時間がもう無いの、F棟に用があるのよ」
「用?」
深く息を吸ったはずだが、もう息切れを起こし始めている。
「備品の在庫数量の確認。減り方がおかしいの」
尚記は時計を見た。
「じゃ、まだ大丈夫ですね」
さっきは断定しなかったくせに、駄目な時は、大丈夫だと断定した。
深呼吸の効果は切れた。
「駄目だよ!事前準備って言うか、事前に話を通さないといけないんだから」
「えっ?庶務の管轄なんだから、在庫確認なんて好きにして良いでしょ?それに休憩中に仕事するんですか?」
八崎はもう一度、深呼吸をした。
「キミが前に現場でしていた掃除と一緒よ。話を通すのは大事なことなの」
きっとこの言い方が一番、尚記に響くはずだった。組織に於いて話を通しておくのが、なぜ大事なことなのかを細かく説明するよりも、尚記が時間外で一生懸命していた事と同列なんだと訴えれば、尚記は素直に理解して大人しく引くだろう。
八崎は尚記を納得させてから、この場を去りたかった。
「あぁ、なるほど。なんとなく分かりました」
この際、なんとなくでも良い。八崎は「ありがと」そう言って立ち去ったが、小径を出たところで、
「子ネコの命はもっと大事です。1分下さい」
焦って呼び止める風でも無い、尚記の落ち着いた声が追いかけてきた。
F棟に向かう八崎は休憩室から出て来た時とは違い、その声を聞き流して先に進む事は出来なかった。
尚記は1分もかからずに倉庫に行って、戻って来た。その少しの間だけ子ネコを八崎に見ていて欲しかったらしい。今度は手に茶碗と牛乳を持っている。八崎は驚いた。
「えっ?牛乳?」
思わず冷えているか確認する為に、手でパックの表面を触ってしまった。
2月だ、牛乳はきちんと冷えて、ちゃんと飲めそうだ。日付も新しい。
「これ、人間用の牛乳ってあげて大丈夫ですかね?」
ダンボールの中に茶碗をセットしながら尚記は聞いてきた。八崎はしげしげと牛乳を眺め、牛乳の謎を猛スピードで推理していたので、返事が適当になってしまった。
「うん?大丈夫じゃない?」
それよりも何故こんな物が倉庫にあるのか知りたい。八崎は目で尚記に訴えかけた。
「あの倉庫、電気引っ張って来てあるんですよ。凄いですよね、沢五郎さん。」
ちょっと意味が分からなかった。沢五郎さんと言うのは、もう退職されたが、この事業所の名物主任だった人だ。
八崎が配属された当時にはもうベテランで、八崎は先輩に、あの人は「百の資格を持つ男」だよ。そう言って、遠くを歩いていた沢五郎をわざわざ紹介された。皆に慕われており、百だった資格の数は、退職間際になると周囲の人によって勝手に八百万にまで増やされ、いじられていた。
沢五郎さんなら近くの電気の来ている棟から、配電設備の無い小さな倉庫に電気を引っ張って来る事も容易だろう。
「小さい冷蔵庫が置いてあるんです、あの中。夏場は重宝してます。設技の人達が利用してるんで、問題ないでしょ?」
そう言う事か、八崎は合点がいった。
沢五郎さんは事業所内で通称、設技屋と呼ばれる人だった。尚記と一緒で定まった場所で働く訳では無く。故障、工事、修繕、メンテナンス、果てはシステム開発まで、必要とされれば事業所の何処へでも出向いて、炎天下の中だろうと、皆のために汗を流してくれた。無論、雪であろうとも。
設技屋は、特に沢五郎は事業所のいたる所で必要とされていた。
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