第24話
「何をしているの?」
計らずとも、朝と全く同じ質問になった。しかしその語勢は朝とは全く違う。朝は何をしてるかは分かったが、何故それをしているかが分からないから質問した、柔らかい「何をしているの?」だったが、今は本当に何をしているかが分からない。詰問に近い語勢で問い正した。
八崎の目から見た尚記は全くもって不審者以外の何者でもない。まさか本当にうなぎを…尚記なら有り得るのが怖い。
そう思った時、振り向いた尚記の腕の中には真っ黒な子ネコが抱かれていた。
「あっ、八崎さん」
八崎は正しく呼ばれているのに「ヤサキよ」と訂正しそうになった。
なぜ不審な動きをしていたかは判明した。子ネコが大人しく抱かれていないのだ。尚記の体をつたって登ろうとしたり、いったい何処に向かって跳ぼうとしているのか、尚記の腕を小さな後ろ足で一生懸命に蹴っている。尚記はその勢いを殺したり、跳び出しそうになる子ネコを抑えようとしたり…
なるほどこれでは、あのような奇妙な動きになる訳だ。疑問は解けたが、八崎は動き回る子ネコにハラハラしながら、同じ質問を繰り返した。
「何をしているの?」
朝の「何しているの?」が、「キミはなんで空を見回しているのかな?」そんなニュアンスであれば、先程のは「貴様!そこで何をしているっ!」と言うニュアンスで、今回の「何しているの?」は
「わたしは何と言って質問すれば、キミのしている事が理解出来るの?」
そう言う思いが含まれている。
「この子を保護しようと思いまして」
尚記はそう言って、それまで子ネコの腕白を許していたのに、突然、首根っこを摘んで持ち上げた。子ネコは観念したように四肢としっぽをダランとぶら下げた。
「ちょっと!」
八崎は尚記の突然な乱暴な扱いに驚いて両手を差し伸べた。すると尚記は差し出された八崎の両手の上に、子ネコをちょこんと置いた。
やられた。
尚記のことを見ると、憎たらしいほどニッコリと笑っている。
「やっぱりね、受けとめてくれると思いました」
八崎は心の何処かを、今朝よりもはっきりと噛まれたのが分かった。何か言ってやりたかったが言葉が出ない。とつぜん手渡された子ネコをあやすのに手一杯なのだけが理由ではなかった。
しっかりと噛まれたのに、痛さも不快さもない。けれど八崎は自分の下唇を噛んでいた。
何も言えずに子ネコの相手をしていると、尚記はどん詰まりの先へ行こうとする。八崎はまた、「ちょっと」と言いそうになったが、さっきから何度も同じ台詞を言わされている。八崎はここに来てから「何をしているの?」と、もう一回言ったら「ちょっと」しか言っていない事になる。
振り回されている感じが否めなかった。しっかりしなくては…
時間にまだ余裕はあったが、
「ねぇ、あまり時間が無いの」
八崎自身も驚くほど不機嫌な声が出た。それは時間が無いのにも関わらず、付き合わされている不機嫌さでは無い。過剰に不機嫌な声を出してしまい、失敗したと思って尚記を見ると、尚記も驚いたようにこちらを見たが、驚いた顔は笑顔に変わり、
「時計を見てたじゃないですか」
!見ていたのか。
「時間を確認してから、ここに来たってことは、多分まだ大丈夫なんでしょう?」
八崎は動揺を深めた。ここ数年来で一番深く動揺した。だから自分が時計を確認した場面を、ちゃんと思い出せなかった。ただ一瞬しか見ていない事は覚えている。その一瞬を見ていたのか?どの辺りから尚記は八崎の存在に気付いていたのだろう?わたしは誘い込まれたのだろうか?
だが、それだと子猫も用意しなくてはならないし、私がF棟に来ることも知っていなくてはならない。猜疑心が瞬時に湧いて、瞬時に消えた。
それよりも尚記を憎たらしく思う気持ちが強かった。なぜ質問形式なのだろう。分かっているなら、大丈夫だ。そう断定してくれれば良いのに。人は質問されると、反射的に何かしら返答しなくてはいけない思いに囚われる。
それに気付いて八崎は、子ネコをあやすのに集中した振りをして無視してやろうかしら?とも思った。しかし、
「キミの行動が遠目からでも不審だったから、時間はないけど優先したの。だから何をやってるか教えてちょうだい?」
「あ、そんな遠くからボクの事を気にしてくれてたんですか?有り難うございます」
続けて、困ったような顔で尚記は、
「んーと、だからその子の保護をしようと思って。」
さっきも言ったでしょ?とでも言いたげな目で八崎を見た。
わたしの中で切れそうな、これは堪忍袋の緒と言うのだろうか?でも切れても、溢れ出るのは怒りでは無いのが分かる。ただ何が溢れ出るか分からない。
何が溢れ出るか分からないが…分からないから、決して切らしてはいけないと八崎は本能的に思った。怒ってはいなかったが、切らしてはいけないと言う必死さは、怒っているような声音を語調に付け加えた。
「だから、ここで何をしているの?ここで、この子を飼うつもりなの?」
「はい、ちょっと待って下さい。」
尚記にとっては、それを今から説明するから、ちょっと待ってくれと言う意味だ。八崎も普段通りの平静さがあれば理解していただろう。だが今、八崎は心穏やかとは言い難かった。
穏やかでない心は少し荒い言葉を弾き出してきた、『はい、だぁ⁈』
尚記の事を変わり者だとは思っていたが、バカではないと信じていた八崎は、信じられない。と言った表情で尚記を見たが、そのとき尚記はもう、どん詰まりの先に消えてしまっていた。
消えてくれてしまって良かった。切れる対象が居なくなってくれた事で、八崎は感情を決壊させずに済んだ。
八崎はうな垂れて息を抜き、力の入っていた肩をスゥっと落とした。それに合わせて、手の中の子ネコの位置もスゥっと下がった。変な浮遊感を味わったのだろうか?上を向いた子ネコと、うな垂れた八崎の視線が合った。
子ネコを抱いていた事も、八崎にはとっては幸いした。思わず力が入って、声を荒げてしまいそうなところだったが、子ネコを気にして力を込め切れない。それがうまい具合いに、八崎の迸りそうな感情の抑止材として働いてくれていたのだ。
「キミはあのバカから逃げようとして、ヤンチャしてたのかい?」
八崎の手に移ってからは、見違えるほど大人しい子ネコのクリッとした目を見ながら、八崎はほんの数滴だけ腹の中に残っていた苛立ちとは違う、必死な思いを出し切った。
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