第21話
尚記は過去に囚われながら、午前中の仕事をこなした。尚記の仕事はルーティンワークであるので、体が覚えてくれさえすれば、勝手に手足が動いてくれる。頭は別のことを考えていても特に支障はなかった。自分がした作業に漏れが無いか確認する時だけ、こちらの世界に戻ってくれば良い。
昼休みを告げるチャイムが鳴ったのを聞いて、尚記は過去から戻って来た。だだっ広い資材倉庫に居るのは尚記だけだ。フォークリフトのエンジンを切って、シートに座ったまま腰を伸ばす為に上を見た。空は無かった。フォークリフトのヘッドガードの裏、尚記が座っている方に、主の居なくなった蜘蛛の巣が張ってあった。
久しぶりに二人の事をしっかりと思い出した。いつも心の何処かには居るが、尚記はいつも視線を外して別の事を考えるようにしている。二人の事を思うと尚記の中には孤独が広がる。孤独は虚無への入り口であり、虚無は破綻をもたらす事を尚記は経験上知っているからだ。
一度、正気を失った事を自覚した人間は、その後、自分が正気かどうかをずっと疑って生きて行くしか無い。
尚記の唯一の救いはこの世に正気の人間など居ないと思える事だ。正気でない人間達が寄り集まって出来た社会はそもそも壊れている。壊れた社会が通常なのだから、壊れている自分もまた通常だ。個性とは言わば壊れ方の違いなんだ。
二人が亡くなった当時、虚無感に堕ちて破綻した思考で尚記が考えついたのはそんな事だった。
自分は今でも壊れたままなのだろうが、それでもやはりあの時ほどの壊れ方は二度としたくない。それ故、尚記は普段はわざと視線を外して、二人の幻影を直接見ないようにしている。今もチャイムが無ければ危うく虚無感に引き摺り込まれるところだった。
自分は今どれくらい正気なんだろうか?
寄木細工が尚記を泣かせてくれなければ、尚記はもっと壊れていたと思う。尚記の手には負えない感情の奔流が、涙となって流れていかず、尚記自身を飲み込んでいたら尚記はいったいどうなっていただろう?
尚記は小箱を開けた後、バラバラにした寄木細工を元に戻せなくてまた泣いた。行き詰まって何処にも行けなくなったケンの想いを解放してやりたい一心で組み解いたが、元に戻せないと分かると、想いを隠したがっていたのがケンの本来の心の形なのではないかと考え、泣きながら小箱を本来の形、封じ込めた想いを誰にも触れさせないように、箱ではなくて単なる木の直方体と思わせるような、あの静謐な形に戻るように、泣きながら無心で木片を組み上げた。
泣いて、泣いて、泣いて、たぶん苦しみから逃げた。ケンの寄木細工が苦しみから逃してくれたのだと思う。
まだ、過去に囚われているな。尚記は資材倉庫のシャッターの前に置かれた、『フォークリフト運搬作業中、立ち入り禁止』の標識を裏返し、自分も頭の切り替えが必要だと思い、シャワールームに向かった。
シャワールームに行くためには、また共通棟に戻らねばならない。尚記はどうしようか迷ったが、再び建屋の合間の通路とは呼べないスペースを通って近道をした。
そこは本来、作業区域とされているスペースで、専門の作業員以外の立ち入りは禁止されている。誰も守ってはいない。と言うのは言い過ぎだが、守っていない作業者は多い。通行しているのが見つかっても、注意をする人としない人がいる。
通行禁止の建前としては、建屋の壁面などに蔦のように這わせてある、蒸気の配管、工業レベルの太さの電線など、それ等が万が一劣化して配管に亀裂があったり、絶縁体の被膜が破けていたりしたら、通行した作業員が蒸気を浴びて火傷を負ったり、感電する可能性があるからだ。
確かにそう言う場所もある。だが今、尚記が歩いている場所にはエアコンの室外機しか置かれていない。工場棟区域側の建屋の合間は危険なので尚記も歩かないが、事務棟区域側にそれほど危険な場所は無いのだ。
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