第14話
二人はその時、更衣室がある建屋に入る直前であり、まだ屋外に居た。先を歩く八崎が重い鉄製の防火扉を開けようとすると、尚記がスルッと割り込んで来て、大きな部材の搬入などの際は、両開きに開く扉の片側を引いて開けてくれた。八崎は尚記の背中を見る事になり、その後ろ姿に、少し伸びて収まり切らなかった襟足が、春の陽気に誘われるように跳ねているのを目にし、何気なしに記憶してしまったらしい。今も映像として浮かんでくる。
扉を開けながら尚記は、尚記とお延が似ているかと言うと、どうであろう?そんな事を言っていたはずだ。
尚記は扉を開けたあと、尚記の頭の高さあたりで扉に手をあてがい、扉を押さえてくれていた。今日は時折り風が強くなる。普段は通り抜けるのに充分な時間をかけて、ゆっくり閉まる扉も、今日は強い風が吹いたタイミングで風圧によって早く閉じてしまい、通行者を挟んでしまう可能性があるからだ。
尚記の脇を通り、八崎は建屋の中に入った。直ぐそこに更衣室がある。脇を通る時、尚記からは消毒薬のエタノールの匂いがした。きっと外来受付棟を清掃した時に使用したものが付着したのだろう。
八崎は通り抜けながら、風で乱れた髪をかき上げようとしたが、それを堪え、建屋に数歩ほど入ってから身なりを整えた。それから更衣室の扉の前に立って、こう言った。
「そうだね、似ていないね。だってキミ、今の話を聞いてお延さんがどう言う人か、人物像が浮かび上がってこないでしょう?」
尚記が「傲慢」と答えた時、尚記は屋外の光を背負っていて、その表情は八崎からは見えなかった。しかし、いつものように、尚記がストレートな物言いをする時の、人によっては傲慢と感じるような感情のない表情をしていたのだろう。
八崎は尚記の感情を失ったような顔を簡単に脳裏に映し出す事が出来る。脳裏にはワイプのように尚記の顔を映し出して、 PCの画面には各事務員から無記名で上がってきた、懸案事項の最新リストを広げ、心の中では尚記が傲慢な顔で傲慢と言い放った時の雰囲気を味わって、静かに思い出し笑いをした。
結局、否定したとは言え、直前まで尚記と似ていると言っていた人物を、尚記は傲慢だと評したのだ。
八崎が弾けたように笑ったのは、尚記の答えが意外だったからであり、その意外性に触発されて奔出した笑いだったが、笑いが細々と続いているのは、尚記が慌てて、わざわざ人物像を思い浮かべて、傲慢と答えたからである。
八崎の解釈としては、お延は故意に気を引く行為をしているタイプの人間だ。お延がお延自身と似たような行動をしている人を見たら、お延が自身に対して感じている人物像をその人に当てはめるだろう。つまりお延があの時の尚記を見たのなら、「あら、あの殿方はわたしの気を引こうとしていらっしゃる。わたしと似たタイプの人なのね」そう感じると思うのだ。
だが尚記は違う、尚記が強いて「傲慢」と答える前の、「何も思わないですね」が、尚記の本来なのだ。八崎の存在に気付いたのに空を見続けていたのは理由などない、何も無い空をただ見ていたかったからだ。八崎はそう信じている。
尚記とお延は似ていない。八崎はそれで終わって良かった。なのに尚記はわざわざ思い浮かべる必要のない人物像を思い浮かべ、その上で傲慢だと称したのだ。先ほどの、己と似た行為をしている人には、己に対する人物像を当てはめる理論で言えば、尚記は自分で自分を傲慢だと言ったような物だ。
そう考えると尚記の事を間抜けだなと思って微笑んでしまい、また、尚記がいつもの調子でストレートに「思い浮かべられません」と言わなかった理由を考え、それが何であるか詳細は分からないにしても、尚記がいつも通りに出来なかったのには、少なからず八崎の影響があると思うと、やはり微笑んでしまうのだ。
八崎は自分の中に嗜虐性がある事を知っていて、上手く折り合いを付けている。開き直っているのとは、またちょっと違った。嗜虐性がある一定の度を超すと、そのまま虐げる方向へは走らず、自分は何て嫌な奴なんだ、そう思うので…要するに意識せずとも自制が働くので、特に怯える事なく自分の嗜虐性を受け入れていた。
自分は積極的に誰かを虐げたいと常々思っている訳ではない。ある特定の人が…その特定の人に当てはまる条件は自分自信にも分からないのだが…少し困っていたりすると、どうにかしてやりたい。そう言う気持ちと共に、どうにかしてあげられる。そんな微かな喜びが湧き上がる。八崎はそれを嗜虐心だと思っていたが、人を助ける事に、八崎と似たような微かな喜びを感じる人は、結構な割合でいるだろう。八崎はそう思っていた。
折り合いを付けている八崎にとって、微笑んでしまう自分に気付く事は些細な事であった。
だから八崎にとってはうまい具合に思考が展開出来ている証拠でもあった。なんと言えば良いだろう、枝考?するのは下らない、些事について行っていれば良い。八崎は営業会議で使用される資料作成の傍ら、かかって来た二本の電話に対応して、調子を取り戻してきた自分に安堵した。
主幹で考えるのは、仕事をどうこなして行くかだ。この調子なら午前中の仕事は予定通り終わるだろう。
油断したつもりはなかった。八崎は見るつもりなど無かった壁の時計を見た。
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