第13話
尚記が「八崎さんは違うんですか?」そう質問した時、二人はもう更衣室の近くまで来ていた。
会話の収束と更衣室までの距離を 二人は無意識で測り、会話が区切り良く終わるように互いの態度だけで申し合わせを行い歩くペースを調整していた。しかし尚記の突然の差し替えに、二人のささやかな努力は台無しになった。
八崎は尚記が「傲慢」と答えた時の笑顔をまだ引きずっていたので、何を質問されているか分からなかったが思わず笑顔のまま受け応えた。右手は既にドアノブを握って更衣室の扉を開けかけている。
八崎のお延に対する感想を一言で表すなら「嬌態」である。だからその事だけを尚記に伝えて、なぜそう思うのかは説明せずに更衣室に入るつもりだった。それでも区切りは良かったはずだ。
ところが尚記の質問が予期せぬものだった為、扉を開けかけたまま尚記を振り返る形になった。
「空を?」
八崎はその明晰な頭脳によって、振り返る一瞬で尚記が何を質問しているか判断できた。しかし、なぜその質問が出たかは分からない。
「あぁ、そうね。わたしも気にしないタイプの人間ね」
八崎がそう答えると、尚記はニコリと笑った。そしてどうやら、本来質問する予定だった、お延の感想についての質問をして来そうだったので八崎は牽制をかけた。ここは女子更衣室の前である。
「沢田さん、どうする?中でお話の続きをする?」
言いながら、招き入れるようにわざと扉を大きく開けた。
尚記は慌てて視線を逃すようにチラリと扉の左上から突き出している「女子更衣室」の表示に目をやった。そして謝ると足早に更衣室を離れて行った。
更衣室で着替えを始めた八崎の頭の七割は今日の仕事の予定に切り替わっていた。残りの三割で今の尚記とのやり取りを、小数点以下の脳を使って着替えを行なっている。
良くない傾向だった。七割でも仕事はこなせる。寧ろ八崎は普段から七割ないし八割のリラックスした状態で仕事に臨むようにしている。しかし、それは残りの三割が白紙に近い状態でないといけない。七割の領域に影響を与えてはいけないのだ。よしんば白紙で無いとしても、すぐに切り離しのできる些事について軽慮するようにしている。
尚記とのやり取りに三割の領域を当てがったのは、尚記が突然、言葉を変えずに、質問の中身だけを変えたのが気になった。それも理由の一つだが、何かしら重大な見落としをしたような気がするからだ。
しかし尚記とのやり取りは三割の思考ではまとめ切れず、不完全燃焼を起こし、中途半端に考えていると、気付かない内に火種を残してしまいそうで危険だ。それに今回の三割は油断をしていると七割を侵食してくる。なぜ侵食をしてくるのか、原因を突き止めるのにも三割の稼働域では不足だ。しかも侵食を食い止めるのにも気を割かなければならない。厄介だ、効率が悪い、八崎は実際に歯噛みをした。
しばらくは考え無いように努力したが、気付くと考えてしまっている。庶務室に行く途中に何度か頭を振り、後輩の事務員に「珍しいですね、二日酔いですか?」と心配された。
八崎は仕方ない、どうせ切り離せないのなら、少しでも面白かったところに焦点を当てよう。優先順位の低いメールを一括で開封しながらそう思った。
メールを読み終わり、朝礼で今日の予定の擦り合わせを庶務のメンバーで行いながら、八崎は尚記が「傲慢」と評した事を殊さら考えていた。
「今日は午後イチで、F棟から上がってくる備品の在庫数が異常な減り方をしているため、実際の状況をF棟に確認しに行きます。しばらく庶務室を離れますが、何かあれば連絡して下さい。戻りは状況次第になります。問題があれば徹底的に追求しますので、いつ戻るかは分かりません。その時はこちらから一本連絡を入れます」
八崎は流暢に一気に述べた。面白かった所に焦点を当てるようにしてからは、どうやら残りの七割は上手く機能しているらしい。
徹底的に追求するのは庶務の仕事では無いのだが、八崎は不審な点については追求しないと気が済まない性質であった。
尚記はこうやって拘ってしまうわたしの事を何と表現するだろう?他のメンバーの予定の読み上げを聞きながら、八崎は今浮かんだ疑問を深追いするのをすぐに辞めて、八崎が思わず笑ってしまった、尚記が「傲慢」と言い放った時の場面を思い起こした。
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