第12話

 八崎はクルリと踵を返して歩きながら、説明の第一歩としてまず、「夏目漱石の『明暗』って知ってる?」そう聞いてきた。

 やはり漢字としては明暗か。尚記は読んだことは無いが、それが夏目漱石の作品で未完だと言う事は知っていた。

「はぁ、題名だけは」

 読書は趣味ではありません。

 その声と表情からは本に興味の無い事が伝わってくるが、尚記は本を良く読む。「明暗」は未完だったので、読んでいなかったのだ。

 八崎は、尚記が「明暗」を読んだ事がないとき用の説明を、進行形で組み立てつつ、ひとまずサイクンは細君であり、奥さん、夫人の事だと言うことを伝えた。尚記の頭にやっと「明暗の細君」という言葉が出来上がり、もう少しで解けそうだった暗号に最後のキーワードがあてはまり、やっと謎が解けたスッキリとした感覚を味わった。

 だが、まだ謎は残っている。なぜ尚記が「明暗の細君」みたいなのだろうか。尚記は男である。

「良く覚えてないけど、確かお延さんって名前だったと思う。主人公の奥さんなの、主人公だったかも知れない」

 尚記は歩きながら説明する八崎に付き従った。八崎は背が小さいのに歩くのが早い。と、突然止まって振り向いた。急いで付き従った尚記は勢い、八崎の横を通り過ぎそうになって慌てて立ち止まった。

 八崎はまた正対して尚記の事を下から強く見つめた。

「キミ、さっき空を眺め回していた時、外来受付棟から出てくる私の事が視界に入っていたでしょ?」

 唐突な質問だったので、さっきの事を思い出すのに、さっきという割には時間をかけて、空を眺め回していた事を思い出した。

「はい」

 八崎の質問の意図が見えないので、余計な事は言えない。

「勘違いしないで欲しいんだけど、挨拶をしろとかって言うんじゃないの」

「はい」と答えつつも、八崎の姿を目に留めたのに、そのまま何も言わずに空を見続けた事に、一言もの申したいのか?と考えたが、八崎はそう言う人ではない。挨拶の形式とかに頓着しない人なのは、八崎と真ともな挨拶を交わさない尚記が一番良く知っている。

「でも、そのぉ、何も思わない?」

 尚記は三回目の「はい」に疑問符を付けた。質問の意図ではなく、主旨が分からなかったからだ。

「知り合いに気が付いた訳でしょ?

そのぉ、優先順位が…」

 確かに尚記は空を見回す事を優先した。しかし、八崎を気に留める事を優先して…優先して、やはり挨拶をしろ。と言う事を言いたいのだろうか?つい先ほど、挨拶をしろ、そう注意するつもりはないと言っていたが。

「ごめん、優先順位じゃないね。気が付かれたのに、そのまま素知らぬ振りをされる人の気持ちって分かる?」

 尚記は立場を変えて想像してみた。尚記が居るのに気にも留めず空を眺める八崎と、空を眺める八崎を見つめる自分。

「……特に何も思わないんじゃないですか?」

「そうだよねぇ。キミはそう言う人だよねぇ。お延さんとは違ったわ。例えが下手だった」

 八崎は勝手に話を締めようとしたが、尚記には何か心に突っかかる物があって、八崎の幕引きの話をあまり良く聞いていなかった。

「明暗の冒頭の方にね、お延さんが主人公である旦那さんの帰宅を玄関先で待ってる場面があってね。玄関先から見える通りに旦那さんの姿を認めたはずなのに、お延さんは旦那さんに声をかけられるまで、あらぬ方向を向いているの」

 尚記は心に突っかかっている物が気になって、話半分に聞いていたが、

「ねっ?場面的には似ているでしょう?」

 そう質問をされ、なにかしら答える事を余儀なくされた。それには一度、何が心に突っかかっているか、探すのを諦めねばならなかった。

「そうですね。場面的には似ていますが、自分とお延さんが似ているかと言うと…」

「そうだね、似ていないね。だってキミ、今の話を聞いてお延さんがどう言う人か、人物像が浮かび上がってこないでしょう?」

 尚記は慌てて記憶を巻き戻した。うわの空だったが まだ再生は可能なはずだ。相手の存在に気付いているのに一顧だにしない人。そんな態度を取る人の人物像を答えれば良いはずだ。

 ……確かに思い浮かばない、その行為がその人物の特徴を浮かび上がらせる行為だとは思えない。尚記は夜明け前を思って、反射的に空を見回しただけだし、お延と言う人も、何かに気を取られたとかで、気付かない振りをした訳ではないんじゃ無いだろうか?

 尚記は「明暗」を読んだ事がないので、前後の描写がどうなっているか分からない。それでも、敢えて言うならば、

「傲慢、ですかね」

 八崎は弾かれたように笑った。

「まぁ、どう言う人物像を思い描くかは、読んだ人によって違うだろうから。そっか、傲慢か。言われて見れば、漱石はお延さんを、傲慢な人として読者に映るように書きたかったのかも知れない」

 何かしら元の話題から、会話に流されてどんどん遠ざかっている気がしたが、尚記は八崎が笑った事で、お延が傲慢な人としては書かれてはいない事を推測し、八崎のお延に対する人物像を聞かずにはいられなかった。

 と共にその質問をした時に、心に突っかかっていた物の正体が、ポロッと姿をあらわした。

 八崎も尚記と一緒のはずなのに、八崎も尚記のように、「気が付かれたのに、そのまま素知らぬ振り」をされても何も感じない人間のはずなのに、「キミはそうだよねぇ」と、八崎自身は違うような、素知らぬ振りをされたら、気にする人のような言い方をしたのは何故だろう?

「八崎さんは違うんですか?」

 会話の流れ上 八崎はこの尚記からの質問を、お延の事を傲慢な人だと思っていないんですか?そう言う意味に捉えた。尚記も最初はそのつもりで質問したが、質問した瞬間に別の疑問が遡って姿を顕したので、八崎が、「わたし?わたしのお延さんの印象…」と答え始めているのにも関わらず、急遽、質問の内容を変えるために八崎の言葉を遮った。

「あ、いや、違うんです。八崎さんも気にしませんよね?空を眺められていても」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る