第11話
尚記はポカンとした。メイアンノサイクンが何なのか分からなかった。
最初は一続きの言葉かと思ったが、「の」で切れる事が分かると、前半の部分は「明暗」であろうと見当をつけた。しかしサイクンが分からない。漢字が当てはまり、明暗のサイクンが何なのか分かったところで、なぜ八崎が今このタイミングで言うのか?それは八崎の説明が無いと、分からないままの気がした。
直前までの会話と何かしら関係があるのかしら?そう思い、尚記は少し前を思い返してみた。
八崎が明暗のサイクンと言う前、尚記は話題を変える事に意識を集中していた。会話の流れが、以前に幾度か注意をされた 尚記の「気を持たせる態度」に再び及びそうだったからだ。
八崎が尚記の事を「キミ」と呼ぶ時は何かしら注意を与えたい時が多い。八崎の方が立場が上だと言う事を示したい訳ではないだろうが、注意を与える側と受ける側の図式上、尚記の事をキミと呼んでしまうのだろう。
そんな年長者風な八崎の態度を思い出して、尚記の思考は一度、明暗のサイクンから離れ、八崎の年長者風な態度についてに及んだ。
基本的には尚記は上から物を言う時の八崎の態度を楽しんでいる。甘えているといっても良いだろう。
八崎が注意する尚記の「気を持たせる態度」は殆どが天然由来のものだ。尚記は計算して発言しているわけではない。優しくしてくれた人には好意を持つ。持った好意を、何も計算せず、何も考えずに発言するから、「好き」と言う言葉が発せられるのだ。
しかし、計算しないのは意図的である。生まれ出た言葉にあれやこれや肉付けをして、単二重と衣装を着せて、体裁を整えてから外に送り出すのは尚記にとっては嘘と一緒だった。
全ての嘘が悪いとは思わないが、尚記はなるべく素のままの言葉を使っていたかった。
素のままの言葉は荒削りで丸みが無い。代わりに劈開に沿って上手く割れた場合、そこから生まれ出る言葉の真っ直ぐさは美しいと尚記は思っている。
その美しさは鋭利な美しさだ。取り扱いを間違えれば周囲の者は傷つくだろう。尚記本人も傷を負う。それは分かってはいるが、尚記は体裁を整える時間をかけたくないのだ。
逢いたい時には「逢いたい」と、行って欲しくない時には「行くな!」と言えるようでいたい。もう、後悔はしたくなかった。
そんな体裁を省くようにしている尚記の言葉使いは、鋭利すぎて誰かに注意を与えるのには向かない。その点、体裁を整えてから発する八崎の言葉は相手からすると受け止めやすい。
そして八崎は体裁を省いて話す尚記と比べても、体裁を整えてから話すまでの時間が遜色ないくらい早い。まるで八崎の素の心その物のように聞こえる。大人の女性の見本とでも言うような鮮やかさだ。
だが、素の思いでは無いだろう、あまりにも整い過ぎている。
八崎と話していると、どこまでが着飾った部分で、どこからが裸の心なのか分からない事が多い。尚記の事を心配しているのは本心であろうが、そこまで心配する理由が分からない。集団の和を考えてのこと、そんな言いぶりだが、尚記はそれが立前なのか本心なのか見切れないでいる。
八崎の立前の下、八崎を構成する基盤の下がどうなっているかなど、建前が組み上がってしまっている以上、尚記には八崎の本心を掘り起こすことは不可能だった。それを考えると尚記はあらためて、八崎の心には何処からか覗けぬ一線があり、普段はその一線が在る事すら認識させぬ器用さで八崎は諸事、物事を行なっているのだなと思った。
卒なく物事をこなす八崎の本心は見えない。見えない本心は不信に繋がっていきそうだが、尚記は思う。これほどしっかりとした美しい建前が創り上げられているのだ、心の礎となる部分にいびつさは無いはずだ。
尚記は信頼して、その信頼に甘えるように八崎の前ではより一層 思ったままを口にする事ができた。
思ったままを口にする事は出来たが、八崎の頭の良さの弱点は敢えて口にしなでいた。八崎は頭が回り過ぎるのだ。尚記の事など、故意に計算せずに話している。そう見抜けば、それで終わりなのに、それで尚記の底は割れるのに。八崎は良く回る頭でその先を考えようとするから、八崎自身に綻びが生まれてしまうのだ。
尚記が故意に計算しないで話すのは、単なる好みの問題だ。しかし八崎は好みだけで、周囲と不和を起こす危険を孕み、実際に問題を起こして尚記自身に損失を与えた態度を改めようとしないのが信じられない、何かしら意図があると思ってしまうのだろう。意図は無いのだ、理由はあるが。
尚記はその理由を八崎に話したことはまだ無い。わざわざ言う類いの事ではないし、八崎が勝手に深読みして、いつもは年上然として毅然としている眉尻が誰にも見つからないように下がるのを見て、密かに楽しんでいたかった。
今日は、楽しんでいるのが伝わってしまったのだろうか、八崎はいつもほど説教めいたことを言って来る気配はない。けれども、いつ方針を転換して、お説教を始めるか分からない。
尚記達がいるのは出勤者がひっきりなしに通って行く幹線道路の傍である。八崎に注意を受けるのは嫌いでは無いが、この衆目の中でやられるのは遠慮したい。八崎が方針を転換する前にこちらで誘導した方向に会話の進行を転換させてしまいたい。
尚記は珍しく、話題を変えたいと言う意図を持って、「話題を変えませんか?」ではなく、表面的には別の意図を持つ、「封筒、お預かりします」と言う言葉を発したのだった。
尚記は直前の状況を思い出し、この珍しく意図を持って、本心とは違う事を言った自分の言葉が どう言う反応作用を引き起こして明暗のサイクンに繋がったのかは、それはもう八崎の説明を待つしかないと、不思議な言葉と共に手の上へ置かれた封筒の宛先を確認しながら八崎の思考に思いを馳せるのを諦めた。
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