第10話
それにもう一つ、大人達は勝手に感じている。いくら好意であっても、重い好意をいきなりまとめて渡されると手に余ると。若い頃のように好意を紐解いて、恋愛に発展できる時間と、そこに注ぎ込める有り余る情熱があれば、手に余ることは無いかも知れない、色恋だけを考えていれば良いのだから。だが大人には生活があり、仕事がある。いきなり抱え切れない好意を渡されても困るのだ、だから大抵の人は手順を踏んで、徐々に自分の気持ちを知って行ってもらうのだ。
徐々に分かって行き、駄目そうなら取り返しがつかなくなる前に、仕事に差し支え無い段階でそれとなく諦めたり、諦めてもらったりするものだ。
そう言った暗黙の規範を尚記は破ってしまうだろうと八崎は思う。破ると言うか身に付いていないように見える。手順を踏まずに、重い好意を突然渡してきて、対等の好意を示し返そうとしても、平気な顔で「何ですかコレ?要りません」と言いそうなのだ。
八崎は結婚をしていて、他者と一線を引く事にも自信がある。だから勘違いをする事は無いが、独身でまだ若い子なら、尚記の物言いを勘違いをする子も居るだろう。そして、その子が勘違いをして示し返した好意を、尚記が無碍に扱ったら?
恨みを持った女性の恐ろしさを尚記は知らないのではないか?それも好意から悪意へ転換された時の邪悪さは、当人達だけでは収まらない、周囲を巻き込んだ問題を引き起こすのだ。
「因みに誰と?」と確認したのは、それが八崎以外の従業員だった場合、尚記はペロッと言う可能性があるから釘を刺しておこうと思ったのだ。
尚記が「八崎さんとです」と答えたので、八崎は他の従業員に言う可能性は無いなと安心した。
気がつくと尚記が手を出している。
八崎が何?そんな表情をすると、尚記は
「封筒、お預かりします」
何を考えているか分からない、乏しい表情で答える。その乏しい表情が八崎の心に細波をたてる。
八崎はいつも外来受付棟に届く郵便物を、出勤前に回収してから事務室に向かう。そして庶務宛の郵便物が無いか確認し、あれば抜き取って、残りの郵便物を郵務担当が持って行くように、発信BOXに入れておく。
郵務の担当の一人に尚記がいる。彼自身が回収作業を行うことはまず無いが、回収された郵便物の振り分けをしているのは尚記だ。どのみち封筒は尚記の元に行く。八崎もいずれ尚記の手に渡るのは知っていた。
しかし別の事を…彼は誰にでも臆する事なく好意の言葉を伝えるが、もしも彼の私に対する好意が特別なものならば、それを知った時、彼の傷が1番浅く済むには、私はどうすれば……バカじゃないだろうか、いったい私は何を自惚れているのだろう?
などと言う事を考えていたので、郵便物を持ったまま更衣室に向かおうとしていたのだ。
毒気を抜かれる。まではいかないが、八崎はなんだか気が削がれた感じがした。心配している相手、言ってみれば庇護対象のような尚記に先を見越された言葉をかけられ、自尊心を甘噛みされたような感覚になった。
八崎はその甘噛みされて少し削がれた部分を修復したい、そう明確に思ったわけではないが、何かひとこと言って封筒を渡してやりたい衝動を抑えられなかった。気が削がれた部分を修復したい。そんな思いを完全に自覚してしまう前に。
あまり時間はない。
何か今の八崎の気分を補う、八崎自身はまだ明確に意識に浮上させていない、削がれた自尊心を修復できる何気ない一言を探し、頭を巡りに巡らせた結果、八崎が発した言葉は「キミは明暗の細君のようだね」だった。
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