第8話
尚記にはこう言う事が多々ある。八崎は尚記のこう言う言動に徐々に慣れつつあったが、今だにドキリとさせられる事がある。
初めて驚いたのは、尚記が大きな荷物を一人で運んでいたのを手伝った時だ。尚記は台車を使って荷物を運んでいたが、その荷物は大き過ぎて1台では収まらない。尚記は2台の台車を横に並べてその上に荷物を置き、2台の台車を一人で器用に操作しながら運搬していた。
工場は安全が第一だ。従業員を守るためだ。建前に感じるが真っ当に大切なことでもある。なので会社は安全を守る為に従業員にルールの厳守を求める。尚記の台車の使用方法はルールから外れているだろう。八崎は器用に台車を操る尚記を見ながらそう思った。
普段のルールから外れて作業を行うには、かなり面倒な手続きを必要とする。たかだか荷物を運ぶ為に、尚記がその手続きをキチンと踏んだとは思えない。八崎はうるさ方に見つかる前に荷物を運び切らせてしまおうと考え、一緒に居た同僚の事務員と共に尚記の作業を手伝った。
その時、尚記はお礼をしながら言ったのだ。「ありがとうございます。2人とも大好きです」と。八崎と同僚の子は驚いて目を見合わせ、同僚の子は母性をくすぐられたように笑っていた。
尚記がこう言う言動をする傾向が多い事を知った八崎は 尚記に、「あまり気を持たせるような事を色んな所で言わない方が良いよ」そんなアドバイスを与えた事があった。八崎は既にベテランと言われる立ち位置で、組織を見渡して考える感覚が養われている。そして、その感覚は尚記に注意をした方が良いと囁いていた。
尚記は「気を持たせる?ですか?」 怪訝な顔した。良く分かっていないようだ。「その…大好きとか、会いたいとか」
別に八崎自身の気持ちでは無い。どう言う言葉が気を持たせるのか、それを説明する為だけに口に出した言葉であるのに、八崎は照れてしまい、その照れが漏れて伝わらないよう、かなり意識を集中させなければならなかった。
良く照れずに言えるものだ。大人になると、こう言ったストレートな物言いはしなくなる。それは社会の中で生きいく上でのマナーでもある。尚記の言葉は肯定的だからまだ良いが、逆に「大嫌いです」や「会いたくありません」をストレートに相手に伝えてしまうと不快感、下手をすると心に傷を負わせてしまう。集団の中で生きていれば、自然と身につく社会性だ。
アドバイスしたのは純粋に尚記のためと、集団の中での風紀を考えていただけであり、恣意的な要素はどこにも無かった。ともすると、お局様が年下の男性を囲いたがっている印象をもたれそうだが、後ろめたさが無い分、何も気後れする事なく八崎は尚記にアドバイスした。実際、彼はこのストレートな物言いが原因で、今の倉庫の資料整理や共通施設掃除などの、いわゆる閑職についているのだから。
だが、同時に羨ましくも思う。生きて行く為に分厚く身に着けた社会性は歳と共に重さを増し、やがて自身を身動き出来なくしてしまう。
「大好き」や「会いたい」を何の衒いも無く言う事ができなくなってしまうのだ。
ややあって尚記は答えた「はぁ、そう言うのが気を持たせるんですね」
どう言う事が、気を持たせるのかは理解してくれた。しかし続けて、
「わかりました、八崎さんにだけ言うようにします」
八崎は思わず眉間のあたりを、手で顔を覆うようにして、人差し指で軽く押さえた。泣けてくるほどの察しの悪さであり、理解してもらう為にはどのように言えば良いのだろう?そんな苦慮の顕れであり、また、そう言った表情をしている事を隠すためでもあった。ほんの少し、尚記の演技かも知れないと言う疑念もあったが、今は考えてもしょうがないと八崎は諦めた…訳ではないが、徐々に分かってもらおう、素なのか演技なのかも、その内わかるだろうと思い、それ以上は何も言わなかった。
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