第6話

「何をしているの?」

 八崎からの問いに尚記は、

「ほら、ハチサキさん」

 の後に

「見てください。咲き始めたんですよ。これ、梅ですかね?桜ですかね?」

 そう続けていた。何か喋らないと忙しい八崎はいつも足を止めてくれない。

 八崎は笑って、ため息混じりに答えた。

「ヤサキよ」

 今日は時間に余裕があるのか、尚記の問いかけに八崎は足を止めてくれた。

「梅でしょうよ、男の人ってそんなモノ?」

 花への興味が梅と桜の見分けもつかないくらいのモノなのか?そう言う意味だろう。嫌味さも小バカにしている感じもなく、ただ単に男の人は、私の想像以上に花に興味がないのかも知れない。そんな新事実に、新鮮に驚いていると言った風だ。笑顔が春めいて来ている日差しに溶けるようだった。

「いや、男の人はちゃんと区別できると思います」

 尚記は自分自身は梅と桜の区別が出来ない人間だと思われても良いが、男全般がそう思われては困ると思い、自分以外の男の尊厳を保つためにそのように答えた。

 尚記も梅と桜の区別をつけることは出来た。目の前の花も梅であるであろう事は分かっていた。しかし目の前の梅は梅にしてはあまりにも絢爛としていて、梅だ。と断定する事が出来なかったのだ。あくまで「梅であるであろう」であり、疑問符を完全に取り切れなかったのである。

 少し離れた所に立っていた八崎はトコトコと寄って来て、尚記と梅の間に割って入った。そこはもう舗装されていない植え込みの部分だっだが、八崎はまるで気にする事なく短いヒールを昨晩の雨で柔らかくなっている土で汚した。

「ホラ、枝振りが違うでしょ?」

 湿り気を帯びた枝で咲いている、まだ雨露に濡れた花に顔を近づける。そのあと不思議そうな顔をして、空に向かって伸びた枝をまるで「おはよう」そう言って起こすかのように人差し指で弾いて揺らした。

 それまでは香っていなかったが、八崎に弾かれた事により既に花を咲かせていた梅は、その香りを驚いたように慌てて広げる。尚記はその香りが梅のものであるのか、八崎の香りであるのか一瞬判断に迷った。

 良い香りだ。梅の香りであれば存分に堪能できる。しかし八崎の香りであるなら堪能することに、恍惚とすることに後ろめたさを感じてしまう。尚記はそれでも呼吸と言う生理現象を止められず、香りを含んだ空気を鼻腔の奥に送って、抗えない肉体の仕組みを悲しく思った。

「花の形状も違うのよ。」

 八崎はそう言いながら尚記の方に顔を向けた。尚記は八崎の後ろに立っている。尚記の方が背が高い。八崎は梅の花に顔を近づけたため軽く腰を折っていて、いつもより頭の位置が低かった。その態勢で尚記の方を見上げるようして振り返ったので、右耳に掛けていた髪がパサリと耳から外れた。八崎は外れた髪をまた右耳かけながら体を起こして尚記と正対する。そして尚記の後ろの幹線道路に戻る為に尚記に向かって歩き出してきた。尚記は初めて八崎がピアスをしていることに気が付いた。

「それは、さすがに知っているだろうけど、知っていても見分けつかないかぁ。そんなものかぁ。」

 そう言いながら、尚記の横を通り抜けようと近づいて来る。八崎はまだ出勤途中だ。更衣室に向かわねばならない。

 八崎はもう男の人は梅と桜の区別がつかない物だと確定したらしい。尚記は男達の尊厳を守ることに失敗したようだ。これではいけない。とは思わなかったが、尚記は梅だと断定出来なかった理由を質問のようにして八崎に伝えた。

「いや、この梅って、梅にしては桜みたいに絢爛としていませんか?」

「えっ?ケンラン?」

 八崎は足を止めた。

確かに絢爛と言う熟語は絢爛だけで使われる事は少ないかも知れない。八崎がすぐに理解できないのも納得できる。

「豪華、絢爛の絢爛。なんと言うか、爛漫と言うか…梅にしては奥ゆかしさが無いような…」

 梅は咲き誇ることさえ印象付けずに散っていく。桜よりも奥ゆかしい。だからと言って桜が奥ゆかしくないかと言えばそうでは無い。桜の花も奥ゆかしいと尚記は思っている。一ひら一ひらがあまりに軽く、咲いている時間はあまりに短い。儚い。桜が咲き誇る瞬間はあの散り際であると尚記は思っている。散り際が咲き誇る瞬間である事を思うと少し切なくなる。自然の摂理はもう少し桜に咲き誇っている時間を与えてやっても良いと思う。だが桜の方が散らなくては咲き誇れない。そんな覚悟を決めているような気がして切なくなるのだ。

 何もしてやれない。何かしてあげられるだろうと思うのは傲慢なのかも知れないとも思う。もう少し咲き誇っていた方が幸せだと思うのは尚記の身勝手な妄想なのだ。

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