第5話
空を見上げた場所は外来受け付け棟から伸びる、工場内の支線道路と言われる、人しか通れないような細い道が、トラックや重機も往来できるほどの道幅のある幹線道路とT字に交わる場所だった。幹線道路の両脇には無災害の記念樹などが植わっている。尚記の目の前に横たわった幹線道路を右に行けば通用門、つまり構内外への出入り口となり、今は続々と出勤者の塊りが流れ込んできている。そして尚記の前を通過し、左側に立ち並ぶ各工場棟に向かって歩いて行き、分散して吸い込まれて行く。
尚記は空を見上げて、そのままグルリと一周、空を見回した。外来受付棟の方を向いた時、外来受付棟から人が出てくるのが一瞬視界に入ったがそのままグルリと一周した。一周したあと工場棟区域の方を向いて止まった。視線は空に向けたままである。空と尚記の視界の間に、幹線道路に植えられている梅の木の枝が割り込んできた。空にヒビが入ったように見えた。
「何をしているの?」
外来受け付け棟から出て来た女性事務員が尚記に尋ねた。
「ほら、ハチサキさん。」
「ヤサキよ。」
女性事務員は八崎であった。
尚記は八崎と会う時は必ずと言って良いほど、このやり取りをする。このやり取りをする瞬間がとても好きだからだ。
このやり取りは2人にとっては…厳密に言うと尚記にとっては、挨拶のようなものだ。八崎がどのように思っているのか尚記は訊いた事がない。ただ八崎は何度やっても「いい加減にしてちょうだい」と言った事が無い。最初のうちこそ、本当に八崎の名前を覚えないのか、わざとなのか探るような目を向けて来たが、わざとだと分かると受け入れてくれた。諦めたとも言うが、嫌な顔をしない。顔見知りの2人が「おはよう」と言っているような当たり前の顔して受け答える。だから2人にとっては挨拶のようなものなんだと尚記は思っている。
実際、尚記と八崎は2人の間で他の挨拶を交わすことはほとんど無い。
例えば朝なら、「ハチサキさん、今朝は寒いですね」「ヤサキです。車のフロントガラスが凍って大変でした」
昼なら「ハチサキさん、お昼ご飯は何ですか?」「ヤサキです。今日は手抜きでコンビニのサンドイッチです」
帰宅時なら「ハチサキさん、暗くなるのが早いから気をつけて帰って下さいね」「ヤサキです。ありがとう、沢田さんも気をつけて」
無論、毎回やるわけではないし、八崎は無視して訂正せずに会話を続ける事もあるが、こういった具合のやり取りをする。
文章として思い起こすと諄く感じるが、2人にとっては「おはよう」や「こんにちは」の感覚なので、何の違和感も無いのだ。尚記は試しに「ハチサキさん」と「ヤサキです」の部分を「おはよう」や「こんにちは」に言い換えて想像してみた事がある。日本語教本の文例に出て来そうなテキスト感はあるが、諄くはないのだ。
この、2人にしか分からない感覚を共有できていると思える事が、尚記にとっては何より嬉しかった。
嬉しかったし、嬉しく感じてしまうのはどう言う事なのかも分かっていた。挨拶のように八崎の名前を二人のあいだで遣り取りするたびに、心に優しい温もりが広がって行くのを否応なく感じてしまうのだ。尚記は八崎と挨拶を交わすたびに自分の想いに気付かされた。
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