第4話
記憶の中では、遠くで弟がはしゃいでいるのが見える。冬になると大人の身の丈を超えて降り積もる雪の平原に、弟は倒れ込んで自分の小さな体を象る遊びに夢中だ。
そんな弟の笑い声を聞きながら、自分のまだ多くに触れた事が無い非力な手の、その掌の上に降り、溶けては消えていく雪を、尚記は涙が出る寸前の気持ちで飽きることなく眺めていたのを覚えている。
後から後からやむことを知らない雪は、世界を静けさの中に包んで行く。尚記の手や頬に触れれば簡単に溶けて消えていくそれは、しかし確実にこの見渡す限り一面の白い世界を作り上げているのだ。
こんなにも脆いのに。
尚記が生き、時には恐怖をも感じさせる世界を、尚記がどんなに静けさを願っても喧騒鳴りやまないこの世界を、雪は白い静けさの中に包んでしまう。尚記は手の中で消える雪と果てしない一面の雪景色を交互に見て、やはり泣きそうな気持ちになるのを幼いながらに自覚していた。
そして、きっと世界には同じような気持ちで涙をこらえている誰かがいるだろうことを思い。僕等はやがて大人になったら出会えるだろうか?出会った時に気付くだろうか?一人ぼっちの魂はお互いに鳴り響いて、まだ見ぬ君がいる事を教えてくれるだろうか?そんな事を考え、また泣きたい気持ちになっていた。
大人になってからも尚記は雪の中に佇むことがあり、同じように泣きたい気持ちになることがある。しかし大人になってから感じる泣きそうな感覚は、幼い頃を思い出すと言う、懐古的な感情も加味されての泣きそうになる感覚なのだろう。昔とは違う。もうあの頃には戻れない。
尚記は外来受付棟の来客用の低いテーブルを拭きながらそんな事を考えて、もう感じる事の出来ない感覚があることを切なく思った。
外来受付棟を1時間ほどかけて清掃し、外に出ると明るさと眩しさが増していた。だか風が吹くと寒い。昨日の夜の雨には雪も混じっていたらしい、そんな事を出勤して来た事務員や作業員の一団が話し合っているのが聞こえた。この時間になると出勤する人の数も増え、そこかしこから談笑や機械的にやり取りされる朝の挨拶の音が聞こえてくる。尚記は他人は気付かない程度に、尚記自身も気付かないうちに顔を顰めた。しかしすぐに出勤者の中に八崎の姿が在るのではないかと思い、口角を上げて人の流れが多い幹線道路の方に歩いて行った。
それにしても明るい。ここまで明るいとあからさま過ぎて尚記の春に対する好意の思いも薄れていく。冬は夜が長い。それも冬が好きな理由の一つだ。特に夜明け前、夜と朝とが混じりあうあの一瞬が見れるのが良い。春が近づくと夜明けが早過ぎて、早起きの尚記もなかなか夜明け前を拝むことが出来なくなる。
尚記は大抵、午前4時頃には起きている。それでも春近くになると準備をして出かける頃には、夜明け前と呼ぶには明るくなり過ぎているのだ。冬であれば夜と朝が混じりあい、空がアメジスト色に染まるひとときを眺める事が容易にできた。
弟の裕記が亡くなってから、尚記は出来る限り夜明け前の空を眺める時間を作るようにしている。夜明けを眺めることによって、夜明け前の悠久さと人の歴史の長さ。夜明け前の短さと人の命の短さ。それらを照らし合わせ、自分を含めた小さな人間達を、夜明け前と言う壮大な現象の中に溶け込ませ一緒くたにする事によって自身の安定を図り、どうにかこうにか一日を乗り越えるように生きていた。
もう8:00過ぎだ。アメジスト色の部分など何処にも残っていない事は分かっていたが、尚記は記憶に残っている幾つかの夜明け前の風景を思い出して反射的に空を見上げた。
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