第3話

 雪はまだ遠くに見える山頂に残っているが、春を感じながら尚記は外来受付棟に着いた。外来受付棟の中には待合室がある。待合室には構内に通じる扉と、構外に通じる扉の二つ出入り口があり、尚記はまず構内側からしか鍵を開けられない扉の、ガラス面の部分を鼻歌混じりで拭いた。拭いた後は扉を全開にして待合室の空気を換気しつつ中に入る。

 もう一つの出入り口は外来者を待合室に迎え入れる為の物なので通行は自由だ。鍵がかかっている事は基本的に無い。こちらは構外へと繋がっているが、ここへ来るまでに守衛の前を通らなければならないし、待合室に貴重な物は無い。

 まさか応接セットのテーブルやソファを、守衛の前を掻い潜って持って行く強者はいないだろう。鍵はかかっていなくても大丈夫なのだ。

 外来者はこの出入り口から待合室に入り、待合室に備え付けられている内線電話で担当者を呼び出す。尚記が開けた鍵がうっかり開いたままでいなければ、外来者はそこから先、待合室から勝手に構内へ進む事は出来ない。

 尚記が掃除を行う早朝に外来者が居た事は滅多にないが、油断をしていると尚記の調子ハズレの鼻歌を聞かれてしまう。聞かれてしまうが尚記は音量を聞こえないくらいまで下げるだけで、鼻歌を止める事は無い。出来るだけ楽しい気分で掃除を終わらせてしまいたいからだ。

 受け付けに人員は割いていない……ことは無いが、受け付けに人を割かねばならないような、いわゆる来賓扱いの外来者は、この棟を使わず別のルートで入って来る。なので鼻歌混じりで作業をしている作業者と、賓客がうっかり出くわす事は無いような仕組みになっている。

 

 ついで尚記は構外側の扉も開放した。待合室の停滞して強張っていた空気が緩むのを感じる。尚記は驚いたように周囲を見回した、空気が緩んだ瞬間に微かに八崎の香りを感じた気がしたからだ。

 八崎と言うのは庶務課の女性だ。尚記と違って外来者の前で鼻歌などを歌う人ではない。受け付けが必要な外来者の場合、対応するのは八崎を含む彼女が所属する庶務の人達だ。彼女達は外部折衝のプロだ。

 待合室には誰もいない。尚記は微かに感じた香りに振り回されるように、外来受付棟の廊下や、他の部屋も見て回った。八崎どころか、尚記以外は誰ひとりとして居なかった。

 気のせいか…これが恋患いというものか。

 尚記は溜息をついて、こんなに振り回されて煩わしく感じるのに、人はなぜ人を好きになるのだろう?そんな事を考えた。もちろん答えは出てこない。ただ自分のなかに在る雪をいつものように感じた。

 雪か…そう思った尚記はいざなわれるように意識が過去へと飛んだ。

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