第113話 十七歳の心模様 vs 三千三百歳の焦る心模様 その2


 それから少しして、なんとか気力を奮い起こした僕は、テーブルに向って脳内に丸ごとインストールされている家庭の医学の内容を書き写す作業に入った。


 図解付きで、より分かりやすく書き記す。


 自分ではそれほどでもないと思っているのだが、僕の筆記速度は恐ろしく速いらしい。二時間と少しでほぼ写本は完了していた。


 その後はアカツキと宮殿内を散策したり、戻ってピアノを連弾したり、寝椅子で二人してちゅっちゅと乳繰り合ったりと緩く過ごした。


 午後からは十一種の法定伝染病の感染予防と対策についてと、文明の発展には必須の航海術について。そして海を渡った先で街があれば船員は必ず娼館へ行くので性病対策も取っておかねばならない。


 元世界ではコロンブスが新大陸を発見した折、船員たちはそこで原住民虐殺ついでに強姦、梅毒に感染、本国へ帰還して僅かな間に日本にまでその病を流行らせた。


 あのクソ人物は、ホントロクなことしない。地獄の炎で無限に焼かれろ。


 というか大航海時代の彼ら船乗りは、交易という名の略奪と、海賊行為と、戦争と、破壊活動と、病気の蔓延と、黒人の奴隷徴用しかしていない。

 クジラを食べるのは野蛮とか言っている割に、彼らのしでかした行為は人を食い物にするという意味合いでの、食人である。さて、どちらが野蛮であるか。


 そうしてここから――抗生物質、ペニシリンの出番となる。


 他にもペニシリン派生のアモキシシリン、テトラサイクリン系のミノマイシン、ペニシリン系にアレルギーを持つ人にはマクロライド系のエリスロマイシンなどもあるが、まずはアオカビ由来の、世界初の抗生物質ペニシリンの精製方法だろう。


 薬の管理保存法と患者への診断と処方、事前の血液検査法も書き記しておこう。


 と、予定していたのだが――。

 事態は急変する。


 はあ。それにしてもこの無気力さよ。テンションがまた落ちてきている。


 ルキウス王子は、実は女の子。

 ああー、ダメだ、ダメだ。まだ引きずってる。


 こっそり薬を盛って、男の子に変えちゃおうかしら。

 ビバ、おちんちんライフ。使とか、手ずから教えちゃおう。

 もちろんベッドの中でね。優しく筆おろしの手管を。

 こう、僕のお尻に、初物をインストール。


 ……国としては喜ばれそうだけど、彼女に絶対に嫌われるよね。

 そんな事態になったら、立ち直れなくなりそう。


 とりとめない考えから――、

 やけ喰い気味にそろそろ昼食でも摂ろうかなぁと思った矢先。


「――黒の聖女様!」


 自室の扉が、ばんっと両開きに勢いよく開いた。

 ぎょっとして振り返ると、全速力で走って来でもしたのか肩で息をしているグナエウス王が険しい表情で立っていた。


「……王陛下?」


 彼はさらに駆けて、僕の前で跪いた。

 えっ、いきなりどうしたのこれ、怖いのですが。


「――王陛下、ダメです。あなたはこの国における最高権力者なのですから」


「しかし、あなたさまは創造神たる光のファオスと闇のスコトスのさらに上位、力弱き神々の守護者ナイアルラトホテップより直々に教皇位をも賜っておられ――」


 ――至高神に腰の入ったタックルからのマウントパンチで折檻したお方なれば。


 な、なんでその黒歴史を、今、ここで?

 ほら、侍女の皆さんも驚いているし。ほら、皆、絶句。


 思わず目を逸らす。いたたまれない。あれは実に不幸な出来事だった。


「あのとき見た阿賀野流戦国太刀酒匂派柔術については、あなた方の伝統格闘術ムエボーランに似通った部分もありましょう。戦闘術ですからね。というかできれば忘れて欲しいというか、恥ずかしいです。やめてください心が死んでしまいます」


「そこをなんとか!」

「えぇ……」


 いや、だから、なぜに忘れ去りたい黒歴史を今になってほじくりかえすの。


 漫画やアニメならともかく、聖女が神に馬乗りになってその顔面を殴りまくるなど色々と狂っているでしょうに。しかも幼い妹が寝坊助な兄を起こすが如くの萌え萌え馬乗りポカポカパンチではなく、ちゃんと理合に基づいて一本拳をめり込ませるのだ。ゴスッ、ドスッ、ボクッ、ドゴッ、と音を立てて。


「ともあれ、黒の聖女様。あなたさまは救国のための力をお持ちです」

「さじ加減を誤れば、星系はおろか銀河すら軽く吹っ飛ばしますけれどね」


 と、言いかけてやめた。ここでごちゃごちゃ宣い合うのは建設的ではない。


「――わかりました。約束を交わした以上は尽力しましょう。ただしそちらも約束を果たして頂きます。そもそも英雄の類は王家にしてみれば治世を乱しかねない諸刃の剣。すなわち用が済めば殺すか、取り込むか、追放するか以外にない。なので、魔王軍の騒動に片がつけば、速やかに『英雄』を元の世界へ返す。後は王家に益するよう好きに物語を描けばいい」


「それについては黒の聖女様は大変ご理解が深く……」

「良いのですよ。さあ、僕の手を。冷たい飲み物でもいかがですか?」


 僕は未だ息の荒いグナエウス王を優しく立たせて絹のソファーに座らせた。

 どうせ北の魔王、パテク・フィリップ三世が率いる魔族の軍勢が予定よりも幾らか早くこの王都に襲来するとか、その程度の情勢変化であろう。


 愚かしくも、僕の中で軽く状況を斬り捨てていた。

 恋をして、勝手に失恋したショックで、総身に血が巡っていなかったのかも。


 グナエウス王がなぜ息を切らせて走ってきたか。

 その理由を少しでもいいので真剣に考えれば、現在進行形で最悪の事態に至っていると簡単に答えが行きつくだろうに。


 良く冷えたマスカット・サイダーをグラスに注ぎ、珪藻土コースターの上に置く。グナエウス王はそれを一気に呷ってふうと息を吐いた。


 もう一杯飲むか聞くと、飲むという。


 僕は再度グラスにサイダーを継いでやる。アカツキの分も忘れず用意する。

 げっふ、とグナエウス王はゲップをし、そして僕は頃合いを計って尋ねてみた。


「それで、王陛下。一体なぜそんなにも慌てていらっしゃったのですか?」


 向かいの席に座り、聞く態勢に入る。アカツキが膝に乗ってきた。


「実は――」


 うん、と相槌を打つ。

 その直後。


「――はぁっ? すみません、もう一度お願いできますか?」


 素っ頓狂な声が出た。僕は、彼の言葉に自らの耳を疑ってしまった。


「魔王軍が王都のすぐ近くに現れたのです! しかも、その軍勢はさながら雲霞の如く! これは比喩ではなく、実際的に、おそらくは当初見込んだ三十万の――」


 約十倍。


 三百万の、天地を黒く覆う、北の魔王が率いる大軍勢。

 しかも魔王は魔王城を空中に浮かべ、それをもって自軍の兵站の要としている。


「……。いつの間に、それほどまで膨れ上がったのでしょうか?」

「最悪なのは数的規模だけでなく、あと四日の接敵予測を裏切り、もう軍勢は」


 今し方、魔王軍は王都のすぐ近くにいると聞いた。なるほど最悪だ。

 魔王軍と王都の猶予を問い質す。

 その距離、およそ六ミーリア。本当にすぐそこ。


 ミーリアとはこの世界における、長さ系統の計量単位である。

 マイルと言い換えればわかりやすいか。一マイルは一・六〇九キロメートルなので、六ミーリアは九・六五四キロメートルとなる。


「ふむ。三百万の軍勢が王都の目前に、と……」

「黒の聖女様! どうか、この国を、お護りください! どうか、なにとぞ!」


 一国の王が恥も外聞もなく僕にすがりついたのはそういうことか。


 どうやったのかは知らないが、敵の軍勢はもうすぐそこまで来ている。


 今からでは兵を新城壁を盾に防衛を整えさせるわけにもいかない。

 手遅れだ。

 出来るとすれば、壁を乗り越えたすぐそこに兵を並べるくらいか。

 すなわち肉の盾。


 いずれにせよ王都防衛軍の十万では、魔王軍三百万の数の暴力に抗うすべもない。うわあ、もう、なんだかなー。


 これは、詰んだか。

 失恋の傷心すら吹っ飛ぶ特大のサプライズイベント。


 僕は目を閉じて上を向いた。

 ああ、面倒だ。

 しかし交わした約束は果たさねばならぬ。

 でも、どうやって? 


 いくら聖女の権能は素晴らしくとも、攻撃手段としては不向きなのだ。

 生き埋めはあくまでトドメとしての手段である。

 建前上は、土木工事あとかたづけの扱いとなろうか。


 それが一変、純粋な攻撃へと転じるとなると。


 強すぎるのだ、力が。都市を爆破、国を爆破、大陸を爆破。

 惑星はおろか星系を、あるいは銀河ごと滅ぼしても良いならやれるけれど。


『むっふふ。なんや、お困りのようやなぁー。可愛いレオナちゃん?』


 僕の脳内に直接、相変わらずの似非関西弁で話しかけるイヌセンパイが。


 ええ、まあ、そうですね。

 自転車を攻撃するのに、わざわざ核弾頭の使用許可を求める感じですかね?


『どこのトムキャットやねん。傭兵稼業で戦闘機運用したいならメンテナンスフリーが鉄板やぞ。そらミッキーも最後にゃマジモンの地獄逝きや。恋人同伴でな』


 僕の前で、恋人の話は、するな……っ!


『うわ、怖っ。マジ怖っ。ごめんてごめんてー。もう、甘酸っぱい青春やなぁー』


 ……まあいいです。だいたい、僕の勘違いが原因ですから。


『女の子の心で男の子を好きになった。または、男の子の心で男の子を好きになったのもあるか。どっちにしろキミは『男の子』のルキナ王女に恋をしたんやな』


 だから、それには触れないで。人の傷口に塩でも擦り込むつもりですか。


『いいや、そんなキミが、俺は愛おしくて堪らんよ。早くこっちへおいで』


 こっちってどっちなんですか……。

 ここだけの話、彼女の股間にペニスを生やしてやろうかと一瞬なりとも悩みましたよ。賢者の石を触媒に、染色体レベルから書き換えて。


『それはオモロイアイデアやな。今度誰かで試してみるかな。美少女の股間に突然ちんちん生やすとか。ほんでちょっと乱暴に後ろから突いてもらうねん』


 ああもう、そういうのは僕のあずかり知らないところでならいくらでもやってください。後ろから突くのも突かれるのもね。それで、何か用があって話しかけてきたのでしょう? さっさと用件を言ってほしいのですが。


『おう、そうや。せやねん。レオナちゃんの困り姿にある種の萌えを感じつつ、さっそうと俺がアイデアをやなー』


 そういうのはいいから。今日は特にしつこいですね。


『パンがないのなら、おにぎり食べればいいじゃない。力を持て余すなら、分散すれば良いじゃない。しかも無駄に浪費・減衰させて適時力を調節して使うんやで』


 何トワネットさんですかそれ。史実では言っていないらしいですが。


『要するにやな――』


 僕はイヌセンパイからアイデアを聞き、なるほど、と頷いた。

 すべては使い方、考え方次第、か。僕は彼の案を採用することにした。


「それでは出撃しましょうか、王陛下」

「おお、黒の聖女様っ! やってくださるのですな!」


「いいえ、僕はあくまで裏方です。王陛下には今から英雄王になって頂きます」

「ええっ?」


「さ、参りましょう。……全軍に通達を。勇気ある者だけが見れる光景がある。刮目せよ、わが闘争を。鎧を着よ、武器を構えよ、勝ち鬨を上げよ、と!」

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