第39話 【幕間】新しい朝、ボクの世界 大


 時刻は水瓶の刻(二十時)を少し回ったところ。


 かなり遅めの就寝時間だった。

 ボクは自室の寝室のベッドに浅く腰を掛けていた。

 すぐ傍にテーブルが用意され、そこには用途不明の器具が並べられている。


 母上と、専属の侍女たちが五人。

 さらには、われらが王国にはなくてはならぬ、いと高き御座のお方――、

 聖女レオナ様がこれからの準備をしてくれているのだった。


 ボクはルキウス兄様の妹、クローディア・カサヴェテス・オリエントスターク。


 今日の朝、ボクはとても無理を押したお願いを、聖女レオナさまに陳情した。

 聖女様は条件付きではあれど、それを承諾してくれた。


 ああ――。


 自身の身体に強い違和感を持ったのはいつのころからだっただろう。


 ボクは数えで十歳となり、祝福の儀を済ませたばかりの女の子だった。オリエントスターク王国の王女でもあるけれど、まずは女の子だと繰り返しておく。


 なぜそれほどにも女性であることにこだわるのかなどと、訊かないでほしい。

 代わりに、少しだけ記憶の網を手繰ろう。

 それは自分にとって必要な、一種の儀式となるはずだから。

 明日にはきっと、ボクは新たな自分に生まれ変わっているはずだから。


 あれはそう、数えで五つのころの節句でのこと。

 三歳、五歳、七歳になると、子どもの成長を神々に感謝する小神事が行われる。


 十歳時に行なわれる神事はその総集編となるものだった。

 最悪、何らかの理由でこれまでの神事を受けられなくとも、十歳の祝福の儀さえ受けておけばそれで問題はない。


 この世界に生まれた者は、すべからく祝福を受ける権利と義務がある。被造物を愛してやまない神々が、その生の輝きを喜んでくださるのだった。


 反面、祝福を受けざる者は人として扱われなくなる。神々が与えてくださる愛情を拒絶するのと同じだから。それは獣畜と同じであり、破門を受けた咎人と同じ立場となる。奴隷よりも下の存在として扱われる。


 いきなり脱線して申し訳ないことに、これを聖女様に話すとなるほど七五三ですか、と一人頷いていた。彼女――いや、彼の世界でも似た神事があるらしい。


 さて、話を戻そう。五歳の自分についてだった。

 数えで三歳の時点ではまだ物心が茫洋とおぼつかず、自らを取り巻く環境に流されるままだったので除外している。五歳、小さな神事とはいえ、その年頃に合わせた行事用の衣装を作るのが古来よりの習わしだった。


 男の子は青などの寒色系の衣装を。

 女の子には赤や黄色の暖色系の衣装を。


 ボクは女だ。

 なのに、寒色系の衣装をしたためられるヘンテコなミスが起きていた。


 それは、歪のようなもの。

 そして五歳にして打ちのめされる残酷な現実だった。


 自分は、精神は女の子の『それ』ではあれど、身体は男の子の『それ』だった。

 おちんちんなんて、絶対、いらないから。


「この衣装は、嫌。男の子の衣装なんて、間違ってるもん」


 言ってボクは突き返す。専属の侍女たちは非礼を詫びて深々と頭を垂れ、予め分かっていたとばかりにすぐに暖色系の衣装を持って参上する。


 彼女らはボクが生まれたときからその身の回りの世話に従事していた。

 なので『そろそろ、こういう反応を示すだろう』ことは、既に彼女らの中で暗黙の内に察していたらしい。肉体は忌々しくも男のそれだったので、一先ずは男児用の衣装を出さざるを得なかっただけで。


 彼女らは悪くない。

 古来からの習わしに衣装上の性差が絡められていただけの話ゆえ。


 父上と母上もボクについては親としてすでに察していた。

 なので少し寂しそうな眼をしただけで、女の子用の衣装を着る自分を叱ったり押しとどめようとしたりはしなかった。


 というのも、われらがオリエントスターク王国の奉ずる神は、美の女神ウェヌスだったことが大きい。


 かの女神は女性でありながらも男性神の側面も併せ持っていた。

 どこか矛盾しているようで、しかし神とはそういう理不尽によって形をなしてこそ神と呼ばれ、敬愛尊崇すべき偉大な存在であった。


 そしてここからが非常に重要な点として――、

 比類なき美の守護者の御力なのだろう、わが王国の国民はすべからく美形で、ただしこれを副作用と称しては不敬になりそうだがあえて書くに、女神でありながらも男性神の側面も抱くウェヌス様のこれまた御力というべきものか、肉体と精神の不一致を負う者もまた他国と比べるとやや比率が高くなっていた。


 聖女レオナさま曰く、この症状を医学的に性別自己同一性障害と呼ぶそうな。


 精神は肉体の玩具に過ぎないと、かの方は言葉を足した。

 もう少し掘り下げるなら精神とは脳内の化学反応がもたらす火花に過ぎず、その脳が認識する性別と、肉体の性別とが合っていないため起きる症状であるという。この不一致は、別に脳も肉体も悪くない。


 繰り返すが、認識の違いなのだ。

 しかし当事者にしてみれば最悪でしかなかった。


 この脳と肉体についての考察はすべて聖女レオナさまの受け売りであり、というより、脳が思考の中枢器官だというのは未だかつて知り得なかった生物学的知識でもあるのだが、しかし遥か高みに生きるかの方のげんなので間違いはないだろう。


 以後、五歳からのボクは王子ではなく王女として扱われるようになった。

 せっかくなので、明るく活発でちょっとアホの子を努めて演じるようにした。


 ところで皆さんは、王族の責務の最たるをご存じだろうか。


 国を守り、国を富まし、それを永らえ、そこに住まう国民には安寧を。

 王族は自国のために生き、そして自国のために死ぬ。それ以外の役割は、ない。


 ゆえに王族は、自らの血統を決して絶やしてはならないのだった。


 ボクは女の子だ。肉体は男ではあれど、それを認めない――認められない。

 恋愛はまだ十の年端なのでよくわからないけれども、本来なら既に婚約者がいてもおかしくないのが王族というものだった。

 しかしボクには婚約者はいないし、たとえいたとしても無意味だった。理由は、いちいち書かなくてもお分かりになられるだろう。


 ボクは王族としての責務を果たせない。


 そのせいでルキウス兄様にはありえないほどの負担を強いてしまっている。

 しかし自分ではどうしようもないのだった。女なのに、女なんてとても抱けない。たとえ王族の使命とわかっていても無理なものは無理。ごめんなさい。


 先日、この身体に変調が見られた。祝福の儀を受けてすぐだった。

 精通、してしまったのである。


 ずきり、と最近特に悩ましい偏頭痛が起きる。


 朝起きてすぐ、下半身のあまりの違和感にしかたなく調べたところ、見たくもない股間の一物が忌々しくピンと上向きに張り、腰巻きには謎の異臭の漂う白い粘液がべっとりとくっついていたのだった。

 最初は訳も分からず途方に暮れてしまったのだが、侍女らがこちらに気遣うような表情で小さく、王女殿下が大人になられたと呟いた。


 通常なら十五歳の成人の儀前後で起きるはずの肉体成長現象だった。

 大人として扱われる年嵩に連なる儀式とは、子をなす準備が整ったと社会に示す公表会でもあるのだから。


 いくらなんでも早熟が過ぎる。

 ボクはまだ十歳、祝福の儀を受けたばかりなのに。


 いつの間にかボクはぼろぼろと涙を流していた。

 こんな酷い仕打ち、あんまりだと。


 だが同時に一つの覚悟が決まった。

 身体がより男性化を強める前に男性部分を切り落とそうと。


 宦官という、一種異様な、他国の役職がある。

 生存率六割。彼らは男の一物を切り落とした者たちで、施術を行なった日から順々に身体が丸みを帯び、女性に近い肉付きに変化していくと聞く。


 ただし基本の体構造に変容は見られない。男の肩幅は、男のまま。となれば身体が成長しきっては、後になって除去しても意味がない。

 処置するなら早目がいい。むしろ本日中にでも執り行なうべきか。


 しかしここに不運は重なる。


 ちょうどそのころ、われらがオリエントスターク王国は、北の魔王パテク・フィリップ三世よりどうにも理解し難い婚活宣戦布告を受けてしまっていた。


 国家の存亡がかかる中で、王族としての責務を果たせないボクの要求など言えたものではない。それは非常識であり、国家反逆にも相当する罪深さがあろう。


 なので、今までに増してボクは――、

 明るく活発で、ちょっとアホの子を演じることにした。


 さて、ここからが肝心である。


 初めはなんて美しい方なのだ、と思ったものだ。

 あるいは、ボクは今日死ぬのかとも。


 魔王パテク・フィリップ三世の宣戦布告後、父上は信頼のおける側近たちを集めて国防会議を開いた。王とは、国の守護者の別名だった。そして国には、民がいる。国家を形成する民を守らずとして、何が王か。


 斥候より入ってくる情報、魔王の軍勢、なんと三十万。魔族は一般的に、人よりも総合的に強い個体だ。そんなものが、それだけの頭数を揃えるとは。


 父上は、王家に伝わる切り札、聖女召喚を行なう決断を下した。


 聖女。わが国ではこの世界の神々のさらに高みに座す、『力弱き神々の守護者』ナイアルラトホテップより使わされる尊き女性を指す。


 力弱き神々の守護者に関しては公にされない一種の秘匿情報ではあれど、支配者たる王やそれに連なる者、直属の家臣・部下ならば誰もが踏まえておかねばならぬ世の理だった。誰が誰を、誰がどこを支配しているかを知らぬ者は支配者足り得ない。しかしこの世界に慈悲を与える神々にも、尊崇の念を示すのも忘れない。


 話の前後を無視してあえて先に語るに、四代目聖女の名は、キリウ・レオナさまとおっしゃられた。


 キリウが家名でレオナが個人名。氏族名は二百年くらい昔に廃れてしまい、今となっては誰も名乗る者はいないという。一応はミナモト氏族の筋ではあるらしい。どうも長らく続く歴史に埋没してしまったような印象である。


 かの方はこの国では聖女を、対外的には教皇の立場と称号を守護者ナイアルラトホテップより直々に賜った。かの方は黙してその栄誉に服した。


 改めて思う。なんて美しい方なのかと。

 この世ならぬ美を前に、ボクは死を覚悟するほどだ。


 オリエントスターク王国は美の女神ウェヌスを奉ずる国ゆえか、美形が多く揃っているのは以前に書いた通りだった。

 しかし『彼女』は、美において群を抜いていた――抜き去っていた。

 ボクはかの方が美の女神ウェヌスを名乗ってもなんら疑問に思わず、自然と受け入れたことだろう。それほどまでの美しさを全身から放射していた。


 サイドに流した亜麻色の繊細な髪、黄金比の祝福を受けたとしか思えない、素晴らしくパーフェクト整った顔立ちシンメトリー。優しげな瞳、長いまつ毛、微かに紅に染まる唇のなんと蠱惑的様相か。豊かな胸の隆起、細い腰に形の良い臀部。

 これまで見たこともない漆黒の衣装――ドレスというらしい。聖女様は目を閉じたまま、巨大な楽器をたおやかに演奏されている。


 聖女様と、交合したい。前後を問わず穴という穴にわが情熱を放ちたい。

 白濁液まみれに汚して屈服させ、その女体をわが物としたい。


 ハッとする。一体、何を考えたのか。そして、今、この身はどうなったのか。


 ボクはこのとき、自身の肉体が男である事実を深く突き付けられた。

 あの忌々しい股間の一物が、痛いほど勃起していたのだ!

 筆舌に尽くし難い屈辱と羞恥に身がよじれそうになる。酷い、酷過ぎる。


 無理だった。目覚めてしまった青い性の欲望には、勝てなかった。


 王都市民への聖女様のお披露目と演説のために馬車で移動前、ボクは花を摘んでくると母上に言い残して厠に駆けこんだ。そして盛大に気を放った。


 泣きながらとめどなく込み上がる気持ちにあえいだ。

 こんなのって、ない。みんな呪われてしまえ。


 良く手を洗って顔も洗い、何事もない雰囲気で戻り、馬車に乗り込む。

 セレモニー会場となる競技場へと移動する。何重にも親衛隊の護衛につけて。

 なぜか父上はゲッソリしたような、それでいて満足した表情をしていた。


 微かに、生臭い独特のニオイを鼻に感じ取る。これはまさか。


 ボクと父上の視線が絡み合う。無言。しかし口にせずともお互いの焦燥感は共有できる。頷き合って、目を伏せた。

 併せて母上と兄様も加わってきた。無言。ただし気持ちの共有には至らない。


 聖女レオナさまはちらりとそんな自分たち一家へ目をやり、しかし無言のまますぐに目線を外へとお戻しになられた。


 何か違和感を覚えたけれど、あえて関心を示さない方針で行くらしい。


 確かに世の中には知らずとも良い事柄は捨てるほどある。むしろかの方のお姿で手淫したなど知ってほしくないし、男性たる父上ならいざ知らず、女の子のボクがこのような恥辱に揉まれるなどあってはならない。


 ボクは無邪気な笑顔を作りつつも、内心ではかの方を射殺さんばかりに昏い羨望と嫉妬と恨みを募らせた。

 なぜこのような完璧な方がいて、自分はこんなにも醜いのだろうと。

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