第35話 夏

 これだけ全力で走ったのはいつぶりだろう。


 全身から汗が吹き出し、息は絶え絶えで今にも倒れそうだ。

 何事かと周囲から視線を向けられるが、構わず改札を通ってホームへ急ぐ。階段の一段一段に身体が軋む。ほんの十数段先が遥か遠くに見える。


「本当に来たんだ」


 階段をのぼってすぐのところに、彼女が立っていた。

 ジーンズに白のブラウス、亜麻色のストール。手入れをしていないのか、髪からは艶やかさが消え寝起きのようにボサボサだ。顔にも化粧気がなく、リップすらしていない。ここまでスイッチの切れた彼女は初めて見る。


「い、行くって、言ったんだから、あ、当たり前、だろっ」


 肩で息をしながら、近くの自動販売機でスポーツドリンクを二本購入した。冷たいボトルを首筋に当てて滞留する熱を逃がしながら、もう一本を綾乃に押し付ける。


「飲んで」

「いらないよ」

「まともに食べてないことは、その顔見れば僕にもわかる。水分くらい摂っとかないと、海に着くまでに倒れるぞ」


 この暑さだからなと太陽を一瞥すると、綾乃は釈然としない表情を浮かべながらもキャップを捻り口を付けた。よほど渇いていたのか、およそ半分が胃の中へ消える。


「……ごめんね」


 キャップを締めて一息つき、彼女は少しだけ精気が戻った瞳でそう呟いた。

 今にも泣き出しそうな面持ちに、京介は視線を伏せ「謝るなよ」と返した。謝らなければならないのはこちらの方だと、静かに唇を噛む。余計なことで迷わずもっと早く動いていれば、そんな顔をさせずに済んだかもしれない。


 キィーッと音を立て電車が停まった。

 彼女の手を取り、半ば引きずるようにして乗り込む。潮風を目指して。






 電車に揺られ一時間ちょっと。

 駅に降り立つなり海水の匂いに襲われ、様々な感情でグチャグチャになっていた頭が一気に鎮火した。ひとまず今日は帰れないと家に連絡し、今晩の宿をスマホで探す。


「僕あんまりお金ないから、素泊まりできるとこがいいんだけどな……」

「えっ。本当に帰らないの?」


 画面と睨めっこしながら呟くと、綾乃は目を剥いて驚きの表情を作った。


「佐々川さんが帰るなら帰るし、帰らないなら帰らない。それとも、僕一人で帰った方がいいか?」


 見上げて聞くと、彼女はきゅっと口元を結び頬を染め、そのままゆっくりと俯いた。繋いだ手を強く握り、ふるふると小さく首を横に振る。


 再びスマホと対面し宿を探す。

 学校によっては、既に夏休みが始まっているところもあるだろう。時期が時期なのもあり、どこも空きがなく、あったとしても高額だ。流石に三万も四万も出せない。


 最終的には、途中替えの下着とTシャツを購入するために立ち寄った古びた洋服屋の店主から、ビジネス旅館を紹介して貰った。

 高校生だけで利用できるのだろうか、という不安はあったが、宿の主のお婆さんが「姉弟二人でいいわねぇ」と綾乃を成人した姉だと勘違いし事なきを得た。


 八畳の和室。ブラウン管のテレビと小さな冷蔵庫、窓際の椅子とテーブル以外に何もない。

 窓の外には海が広がり、太陽が傾きかけているのもあって砂浜は閑散としている。


「ごめんな。二部屋とれなくて」

「気にしないよ」

「夜は離れて寝るから」


 緊張もするし動揺もしているが、今この空気の中で表情に出すのは憚られた。精一杯平静を保って息をつく。

 

「海、見に行こうか」


 荷物を置いて、窓を開けた。


「……うん」


 古めかしい畳の匂いに満ちていた室内に、夏の香りが流れ込む。






 砂浜に座って、どれくらい経っただろう。

 夕闇色の海水がざざーっと音を立てた。街灯に明かりが灯り、建物から光が漏れる。

 地面に着いた手の上に、不意に彼女の手のひらが重なった。視線を上げると、そこには儚い笑みが咲いている。


「うち、さ……」


 そう零すと、涼し気な風が彼女の横髪を絡めて行った。


「ママ、いないんだ。ずっと前に……私の誕生日に、いなくなっちゃって」


 知っていた、わけではないが、ある程度察していた。

 イヤリングの件が顕著だ。綾乃は母親が絡むと、いつも物悲しい顔をしていた。……しかし、こうして正面から口にされると心に来るものがある。自分にとっては、家に帰れば当たり前にいる存在。それがいない感覚は、京介の想像を越えている。


「誕生日の前の日、ママにあのイヤリングが欲しいってお願いしたの。でも、私にはまだ早いって怒られてさ。それで、酷いこといっぱい言っちゃってね……朝起きたらいなくなってて」

「……それが理由じゃ、ないだろ」

「パパもそう言ってくれたけど、本当のとこはわかんないんだよね。けど、中三の誕生日にママから手紙が送られて来たの。あのイヤリングと一緒に」


 「いつも見てくれてたんだって」と続けながらも、その声には覇気がない。


「私、それが本当に嬉しかったんだけど、パパはこんなのたちの悪い悪戯だって言ってさ。すごい大喧嘩になって……」

「だから、一人暮らしすることになったのか」


 うんと頷いて、一瞬伏せた瞳を波に戻した。


「この前の電話はパパから。今度再婚するから、出来たら新しいママに挨拶して欲しいって言われた」

「えっ」

「……あと、ママの家族が、失踪宣告っていうのするんだって」

「失踪……何だ、それ」

「いなくなった人を法律上死亡扱いにする制度。ママの家、お金持ちだからさ。一人でも少ない方が、ほら……遺産の取り分とか多くなるんでしょ」


 投げやり気味に言い放って、ふっと酷く乾いた笑みを鼻から漏らす。


 あの電話を受け、彼女がああも取り乱した理由を理解した。

 突然新しい母親の話をされ、前の母親はこれから死ぬと言われて、混乱しないわけがない。何より綾乃は、失踪してもなお母親を愛しているのだから、そのどちらも受け入れ難いだろう。怒鳴りもするし、引きこもりもするし、当然自棄にもなる。


「何か……もう、私バカみたいじゃん。パパも本心ではママのこと好きで、向こうの家族も探してくれてるって思ってたのに。皆、ママはいらないんだって」


 京介には、どちらの真意も知るすべがない。


 もしかすれば、綾乃の父親は深く考え悩んだ末に再婚の道を選んだのかもしれない。

 母親の方の家族も、それが最善の選択だと思ったのかもしれない。


 そこまで想像して、しかしどうしようもなく腹が立った。

 なぜそれら全てが事後報告なのだろう。どちらの事柄も、彼女にとって重大だということは容易に想像できるはず。もちろん綾乃は反対し話がこじれるとは思うが、それでも話し合わないよりはマシだ。


「……でも、一番辛かったのは、新しいママがいい人だったことでさ」

「話したのか?」

「電話で、ちょっとだけ。私のこと、すごく心配してくれて、優しくしてくれて。落ち着いたら会いましょうって。それが、本当の、ママみたいで……っ」


 せき止めていたものが決壊し、大粒の涙が砂浜に落ちた消えた。


「何で嫌な人じゃないのって、思った。私に嫌いって思わせてよ、って。でも、パパより、ママの家族より、味方してくれてさ。こんなの責められないじゃん! こんなこと考えてる私が一番嫌な奴だよ!!」


 呼吸が乱れ、頬を何度も熱いものが伝う。


「……だから、色んなこと考えちゃって。私がこんなだから、やっぱりママから嫌われてるんじゃないか、とか。あの手紙も本当に悪戯なんじゃないか、とか。私がいなくなったら、パパも皆も、幸せになるんじゃないか、とかさ」


 と言って、笑う。諦念と焦燥をぐちゃぐちゃに混ぜたような感情を、口元のシワに刻む。

 そのあまりにも空虚な美しい表情に、京介は胸を貫かれるような痛みを覚える。


「それは違う」


 腰を上げ、そう口にした。語気を強め、精一杯自信たっぷりに言い放った。


 今まで綾乃が零していたのは、全ての家族の話だ。内輪の揉め事に対し、京介には干渉するすべがなく、彼女がそれを望んでいるとも限らない。

 だが、今の発言は違うと思った。

 黙って背中をさすり、うんうんと聞き流していいものではないと確信した。

 

「僕は佐々川さんがいなくなったら困るぞ」

「……でも、私」

「大体聞いてれば、佐々川さんのどこに非があるんだ。同じ立場だったら、誰だって新しい母親を目の敵にするだろ。それなのに、ちゃんといい人だって思えるお前が、嫌な奴なわけがない」


 立場と境遇を考慮すれば、綾乃が新しい母親を悪者と指差すのは自然な流れだ。周りの者たちにも、それを咎める権利などない。故に、そうしない彼女を人格者だとすら思う


「……僕は、佐々川さんが好きなんだ」


 ふっと、彼女は顔を上げた。

 何の足しにもならないかもしれないが、その頭に手を置き優しく髪をすく。


「だから、僕の友達の悪口を言うなよ。僕だって怒るんだぞ」


 それは、いつか彼女から贈られた言葉だった。

 もう一度、頭のてっぺんから耳のあたりまで撫で下ろした。海の深いところに沈んでいた瞳に、夕日の色が灯る。ぱちりと大きくまばたきをして、薄く開けていた唇を結ぶ。


 頬に差した朱色がよほど重たいのか、ゆっくりと顔を伏して「ごめんね」と呟いた。京介はまたしても、「だから謝るなって」と返すのだった。






 よほど疲れていたのか、綾乃は十時を回る前に眠ってしまった。

 慣れない枕では中々眠れない京介は、かれこれ二時間近くぱっちりと目を開けて天井を見つめていた。静かな夜を彩る波の音は心地いいが、同時に何もかも飲み込んでしまいそうで不安にもなる。


(本当に泊ってるな、僕……)


 今更ながら冷静になった頭で、ははっとから笑いした。

 母親からは怒りの連絡が鳴りやまないし、明日は朝一で出ない限り学校にも間に合わない。きっと綾乃は、明日も登校する気はないだろう。まさかこんな形で、夏休みに突入するとは思わなかった。


 水分を摂ろうと布団から這い出て、冷蔵庫に入れていたスポーツドリンクの残りを飲み干す。

 ふと綾乃を見ると、ほんの数時間前のことが嘘のような至福の表情で眠っていた。相変わらず綺麗だな、と若干の罪悪感を抱えながら近付いて覗き込む。頬に触れ頭を撫でると、眠りながらもくすぐったそうに微笑む。


(……あれで良かったのかな)


 砂浜でのやり取りを回想しながら、綾乃の髪をすいた。


 ここまでついて来て京介に出来たのは、自分を卑下しないよう注意を促すくらいだった。他人の家庭事情には逆立ちしたって踏み込めないし、仮に出来たとしてもそれは事態をよりややこしくするだけだろう。結局諸々の問題を解決できるのは、綾乃を除いて他にいない。


 無力さと悔しさに歯噛みし、目を細めた。


 自分には何が出来るのだろう。

 大きなことは、きっと無理だ。ならば、小さなこと。自分にしか出来ない、彼女が望む何か。

 一つだけ、思い当たる節があった。それをしたところで問題は何一つ解決しないが、少なくとも彼女は喜ぶ、かもしれない。


「……綾乃」


 飛鳥が綾乃の家を襲撃した日、彼女は言った。下の名前で呼んで欲しい――と、直接口にしたわけではないが、あの時の言葉は暗にそう語っていた。


 異性を下の名前で呼ぶのは、親族を除けばこれで二人目だ。

 全員を一律に苗字で呼ぶのは、自分から歩み寄ることが怖いからだ。一つ壁を作っておけば、距離感を間違えることはない。……万が一関係性が破綻しても、それほど仲がいいわけではなかったと自分に言い訳できる。


 慣れない響きに頬を染めた。

 朝起きて、突然下の名前で呼び始めたら不自然だろう。ここは段階を重ねて……いや、事前に確認を取ってから呼ぶべきか。


「もう一回」


 不意にぱっと瞼を開いて放った言葉に、京介は「うぉ」と呻きながらのけ反った。


「お、起きてたのか?」

「冷蔵庫開けた音でね。私、あんまり眠り深くないから」


 身体を起こして敷布団の上でアヒル座りした。眠気が残留する瞳で、京介を見据える。


「それより、もう一回」

「も、もう一回って……」

「私、よく聞こえなかったな」

「……綾乃」


 口に出して、胸の奥から昇って来る熱に耐えた。

 恥ずかしがるような素振りを見せたら、そう呼ぶのが嫌だと思われるかもしれない。違う、嫌ではないのだ。踏み込むのも、踏み込まれるのも、どちらも怖くて呼んでいなかっただけで。


「綾乃」


 もう一度、今度はより大きく声に出した。

 月明りだけが頼りの薄闇漂う室内でも、その頬の朱色と淡い笑みはハッキリと確認できた。途端に心地いいむず痒さに襲われ、ついに京介は視線を伏す。


「何でいきなり?」

「僕に出来ることは、やらなきゃって思って。……呼んで欲しいって言ってただろ」


 よほど嬉しいのか唇をもにょもにょと動かしながら、綾乃はこくりと大きく頷いた。


「だから、困ったことがあったら言えよ。僕には毛虫ほどの力しかないけど、一生懸命頑張るくらいのことは出来るから」

「毛虫じゃないよ。毛虫は私と一緒に、海まで来てくれないもん」

「いや、それは言葉のあやっていうか。まあ、いいけど……」


 後頭部を掻いて息をつく。

 このすぐ自分を卑下してしまうところも、いつか直さないと。彼女のことを言っていられない。


「じゃあ、一個……お願いがあるの」


 俯いたまま、真剣な声音で唱えた。


「私……やっぱり、諦められないから、いつかママを探そうと思う。見つけて、それで話して……。帰って来て貰うのは無理だと思うけど、私だけでもママはいるんだって知っておきたい」

「……それはいいが、探すってどうやって?」

「貰った手紙に、住所が書いてあって。パパに捨てられちゃったから、正確なところは覚えてないんだけど、地名だけなら何とか……」


 と口ごもりながら、身体をもぞもぞと動かす。


 綾乃は、見た目に反して中身は実年齢以下だ。好奇心旺盛で、だけど怖がりで、寂しがり屋で。

 そんな少女に、失踪した母親を自分で一人で探せというのは酷な話だろう。忘れられているかもしれないし、実は本当に嫌われているかもしれないし、そもそも見つからないかもしれない。無数の不安と戦いながらの旅路に本来必要な親族は、彼女の周りには誰もいない。


「僕でいいなら付き合うよ。綾乃一人じゃ猫カフェにも着かなかったし、イヤリングの時みたいに焦って周り見えなくなられても困るしな」


 思ったより、ぶっきらぼうな言い方になってしまった。出来ることならやり直したい――そんな反省の間はなく、気づけば抱き締められていた。

 柔らかく、温かい。

 京介の小さな身体では到底包み込めないが、それでも何とか腕を広げて背中に回す。


「……ありがとう」


 謝罪ばかりの今日の中で、それは初めて聞いた台詞だった。

 震える声。Tシャツに染みる熱いもの。小さな嗚咽と共に、彼女は必死に言葉を紡ぐ。


「ありがとう、京介」


 身体を寄せ合うには、暑い季節。

 しかし二人は肌が汗ばむのも構わずに、お互いがそこにいることを確かめ合った。

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