第34話 疾走
七月に入ってすぐ期末テストが始まり、綾乃は日頃の勉強の甲斐あって全教科平均以上とまずまずの成績を修めた。京介も全体的に点数は伸びたが、順位は上がらず中間テスト時と同様に四位だった。
ちなみに、沙夜は案の定一位をキープ。
琥太郎も全教科赤点を回避し、夏休みに補習がないと喜んでいた。
期末テスト後すぐに球技大会が行われたが、運動が得意ではない京介には関係のないこと。
邪魔にならないようひっそりと隅に座っていたら、いつの間にか終わっていた。綾乃に絡まれたのはよく覚えているが、どのクラスが負けて、どのクラスが勝ったのかは記憶にない。
一学期も佳境。あとは終業式を残すだけ。
梅雨は最後の力を振り絞り、連日地面に雨を叩きつけていた。浮足立つような気怠いような、何とも形容し難いふわふわとした空気が学校全体を覆っている。
皆一様にどこか上の空。
京介も例外ではなく、雨音に耳を貸しているうちにその日全ての授業が終了していた。
「嘘だろ……」
玄関で靴を履き替え、さあ帰ろうと傘立ての前に立ち苦笑気味に呟いた。
「どうしたの?」と覗き込む綾乃。京介はガックリと項垂れてため息をつく。
「傘、パクられた」
「えっ。朝から降ってたでしょ」
「自分のと間違えたんだろ。普通のビニール傘だったし」
「んー。まあ、いいんじゃない?」
私のがあるから、と綾乃は自分の傘を開いて見せた。
相合傘。若干の抵抗はあるが、濡れて帰るわけにはいかないし、まして誰かの傘を盗むわけにもいかないため仕方がない。
「こんなこと、前にもあったよね」
歩き出すなりそう呟いて、綾乃の瞳は前を向いたまま四月の情景を映す。
忘れもしない、あの日。彼女が傘を忘れ、立ち尽くしていた放課後。桜の花びらで滑って転んで負った傷は、痕になって消えそうにない。
「あの時さ、何でわざわざ折り畳み傘買って来たの? 普通の傘のが安いでしょ」
「……あれは、たまたま鞄に入ってたって言っただろ」
「嘘だぁ。新品だったじゃん。タグ付いてたし」
「買ってそのままにしてたんだ」
デジャブだ。前にもまったく同じやり取りした気がする。
よほど訳を知りたいのか、「ねぇーねぇー」と傘を左右に振りながら言った。そのたびに身体がはみ出し雨に濡れる。これでは傘を差していないのと変わらない。
「傘がなくて困ってる人に新品の傘を買って渡すって、恩を感じろよって言ってるようなもんだろ。折り畳み傘なら常備してたっておかしくないし、だから渡しても問題ないかなと……」
自分で言っていて恥ずかしくなってきた。
「……悪かったな、回りくどいことして」
「謝らないでよ。藤村のそういうとこ、私好きだよ」
性格についての評価だとわかってはいるが、その言葉に心臓が跳ねた。顔が熱いのはきっと夏のせいだ、と頬を掻く。
「あとちょっとで夏休みだね」
そう言って見上げた視線の先には、雲の切れ間からわずかに顔を出す太陽があった。
気温は連日右肩上がりで、世の中は確実に夏へ向かっている。もうすぐ梅雨明け、じきにセミも鳴き始めるだろう。
「藤村は予定とかあるの?」
「帰省するくらいかな。あとは家でダラダラしてる」
「ええー、どっか行こうよ。プールとか、キャンプとか」
一瞬、綾乃の水着姿が脳内を駆け抜けて行った。
しなやかな肢体、同性ですら振り返るような身体つき。きっと大人っぽい水着が似合うのだろうな……とそこまで考えて、邪な妄想を振り切り咳払いをする。
「プールはともかく、キャンプは無理だろ。アウトドアの知識ないぞ」
「そこはほら、沙夜ちゃんも誘ってさ。そしたら幼馴染みの人も来るだろうし、何とかなりそうだけど」
「幼馴染みって、東條のことか?」
「そういうのに詳しそうな感じするじゃん、あの人」
確かに、と頷く。
あの男は十中八九、セミを追いかけプールに通い、山を駆け回り橋から川に飛び込んでいたタイプだ。火起こしやテントの設営くらいお手の物だろう。仮にこれらがまったくの偏見だったとしても、少なくとも京介より筋力体力共に優れているため、その場で何とかしてしまいそうな雰囲気がある。
「でも、仕事が入ってるからあんまり時間ないんだよね」
「結構忙しいのか?」
「うん。ありがたいことだけど」
目を細めて浮かべた苦笑いは、複雑な感情を孕んでいた。
前に彼女の部屋でした会話を思い返す。何となく始めて、何となく続けているだけ。やりがいはそれなりにあるのだと思うが、惰性であることに違いはないのだろう。
「……僕はいつでも暇してるから。まあ、気が向いたら誘ってよ。何でも付き合うから」
「女装でも?」
「もう二度とやらん」
ちぇー、とわざとらしく唇を尖らせた。
あれは予定外のプレゼントだ。出来上がった姿は可愛かったし、不快な一日だったとは口が裂けても言えないが、しかしまたやりたいかと聞かれたら否と答える。恥ずかしかったことに変わりはない。
「カキ氷作りたいんだよね。本格的な氷で、イチゴ味ね」
「夏っぽくていいな」
「お祭り行きたいな。浴衣着てみたいの」
「似合うんじゃないか」
「天体観測もしてみたい。プラネタリウムでしか、ちゃんと見たことないし」
「うちに望遠鏡あるぞ」
「あとね、えっと、あと……」
その横顔は、お子様ランチを前にした子供がどれから食べようか迷っているようだ。
少し汗ばんだ微笑は妙に艶っぽく、いつまでも見ていたくなった。観賞しているうちに、彼女の頬に朱色が差し双眸がこちらに向く。
「今まで通り、時間が合ったら勉強教えてね。美味しい料理、作るから」
と言って、足を止め笑った。ヒマワリのように、口元を咲かせる。
それがあまりにも綺麗だったから、「ああ」も「うん」も喉から出て来ず、ただ深く首肯することしかできなかった。
「明日うちに来たら、とっておきのオムライス作ってあげる」
「とっておき?」
「そう。ふわとろなのマスターしたの!」
ふんすと鼻息を漏らし、再び歩き出した。
雨に濡れないよう、彼女のあとを追う。明日への期待に解ける唇を、顔を逸らして隠しながら。
「あっ。ちょっと待って」
電話が来たらしく、綾乃は急いでスマホを取り出して。
発信相手を見るなり、今までに見たことのない負の表情を覗かせた。
「……ごめん。話してくるね」
そう口にするなり傘を京介に押し付け、数メートル離れた建物の軒下まで移動した。
この距離に雨音も相まって何を話しているかはわからないが、怒気を孕んだ真剣な表情から世間話でないことは理解できる。
五分程度だろうか。
最後に何か大きな声をあげ、乱暴に電話を切った。明らかに尋常ではない事態に訳を聞こうと口を開くも、彼女は戻って来るなり「行こ」と冷ややかに呟いて傘を取り歩き出す。
一歩遅れて後を追う。
歪んだ横顔は何も話したくないと言っているようで、京介は開きかけた唇をそのままおろした。
翌日、綾乃は学校に来なかった。
急な用事だろうかとメッセージを送るが返事はなく、次の日も学校を無断欠席。その日の夜には既読が付いていたが、しかし返答はない。
更にその次の日も、その次の日も……。
教室の一席が空っぽのまま梅雨が明け、終業式が目前まで迫る。心配した担任が連絡するも繋がらず、家を訪ねたが不在だったらしい。
沙夜を含め、クラスの全員が仕事に忙殺されていると思っているようだが、京介は一人別の疑念を抱いていた。
あの電話。あのほんの五分が、決定的に何かを変えた。少なくとも体調不良ではなく、勘だが仕事でもない。何もわからないが、嫌な予感だけが背筋を這う。
京介は迷っていた。
メッセージを無視するということは、触れて欲しくないということだ。電話も家を訪ねるのも簡単だが、迷惑がられるかもしれない。……だが、放っておけるほど彼女をどうでもよく思っていない。
(こんなこと、前にもあったな……)
午後四時を回っても太陽の自己主張の強さは収まらず、鼓膜を割るようなセミの声は止まらない。
一歩一歩が修行の如き暑さの帰路を行きながら、中学の時のことを思い出した。それが最悪の決断だと知りながらも、彼女の意思だからと言われるがままに従った記憶を。
明日を越えれば、その先には夏休みが控えている。
カキ氷はともかく、祭りに行くなら多少は下調べが必要だろう。天体観測にしてもキャンプにしても、人里離れた場所までの足をどうするか考えなければならない。プールに入るなら水着を買わなくては。
学校に来たくないのなら、別にそれは構わない。
だが、楽しい夏休みを過ごすなら相応の準備がいる。話し合いが、いる。
(……迷惑、かもしれない、けど)
立ち止まり、彼女に電話をかけた。
会話の内容は決めていない。そもそも出てくれるかどうかすらわからない。出なかった時は家まで押しかければいい。
声が聞きたい。今は、ただひたすらに。
『……どしたの』
スマホから、ひしゃげた声が鳴った。
ハッと目を剥いて、すぐさま自己嫌悪に襲われた。こんなに元気のない声を聞いたのは、イヤリングを失くした時以来だ。どうしてもっと早く、強気に出なかったのだろう。
「体調、悪いのか?」
『ううん。大丈夫だよ』
大丈夫ではないことくらい、京介にもわかる。
ふと、あることに気づいた。彼女の周りから聞こえてくる雑音は、明らかに自室のものではない。
「どこにいるんだ?」
『藤村には関係ないでしょ』
「関係ある。友達だから」
理由としては弱い。たかがそんなことで、踏み込まれたくないかもしれない。
だけど、手を伸ばさずにはいられなかった。
『…………駅』
長い沈黙を挟み、彼女は小さく零した。
「どっか行くのか?」
『わかんないけど。たぶん、遠いとこ』
「遠いとこってどこだよ」
『海……とか、そんな感じ』
無意識のうちに、つま先は駅を目指して歩いていた。
自暴自棄になっていることが、声からも伝わってくる。
「僕、今から行くから」
『来てどうするの?』
「わからないけど、一緒に行く」
『今日はもう帰れないよ』
「別にいい」
『よくないでしょ』
「いいんだよ、そんなこと」
いつの間に駆け出していた両足。
汗ばんだ腕に、ワイシャツの袖が張り付く。
「何でも言うことを聞かせる権利、僕の分、まだ使ってなかっただろ」
『えっ?』
ホラー映画を観て最初に悲鳴をあげた方が――。
いつかしたそんな遊びで、綾乃に言うことを聞かせる権利の使用を、京介はずっと保留にしていた。思い出したのか、電話口から『あぁ』と声が漏れる。
「それ、今使う」
『で、でも』
「僕が着くまで、そこから動くなよ」
独善的だ。自己満足だ。本当にこれが彼女のためなのだろうか。
(考えるなっ)
踏み出すごとに湧く疑念。
嫌われるかもしれない、泣かれてしまうかもしれない。
(考えるな……っ!)
足を止める理由が散乱する道を、出来るだけ強く蹴って前へ進む。
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