第29話 オキシトシン
マンションの外に出ると、覚悟はしていたが室内にいる時とは比べ物にならない恥ずかしさに襲われた。
道行く人の視線が漏れなくこちらに向いているように錯覚するも、それでも正気を保てているのは靴のおかげだろう。初めて履く厚底の靴はあまりにも歩きづらく、恥ずかしいからと注意を散らしていては転びそうになる。
また、綾乃が手を引いてくれることも助かっていた。
自分は視線を伏せ、何も考えず、ただ引かれるまま歩けばいい。外界からの情報は限りなく遮断され、自分と彼女の足音だけを鼓膜は拾う。
駅に着き電車に乗り込む頃には、わずかだがこの姿にも慣れていた。
周囲に気を配る余裕も生まれ、誰も自分に奇異の目を向けていないことに気づく。それが単純に何の違和感もないからなのか、違和感があるから目を合わせないようにしているのかはわからないが、できれば前者だと信じたい。
綾乃はというと、終始楽しそうにしていた。
たまに目が合うとはにかみ、手汗が気になるのか事あるごとに服で拭い、そのたびに熱くなったからとよくわからない言い訳をする。「藤村、体温高いね」と笑っているが、熱いのはそっちの方だろと指摘するほど不作法ではない。
そしてまた、手が触れ合い、指を絡め、繋ぐ。
家を出てから幾度となく繰り返した動作。
女装への慣れに心が緩み、別の羞恥がその隙間を埋めた。
手を繋ぐ。親や妹と数え切れないほどやったことが、こと他人となるとなぜここまで恥ずかしいのだろうか。二人で罰ゲームありで映画を観た時とは少し違う。心臓の音が、相手にまで伝わっていないか不安になる。そんなことは、あり得ないはずなのに。
電車を降りて、駅を出て、映画館へと向かう。その道中も、当然二人の影は繋がったまま。
少しだけ、指に力を込める。
すると、綾乃も負けじと力んできた。それが何だか面白くて、今度は逆に弱めてみると、彼女の手は離すまいとしてくる。
「どうしたの?」
「あ。んっ、ううん」
怪訝そうな面持ちで振り返った綾乃に、京介は小さく首を横に振った。
「そう」と左手で右の横髪を耳にかけた。小指を飾るリングが、きらりと日光を反射する。京介にはその動きが妙に色っぽく映り、頬に朱色が溜まってゆく。
「も、もしかして嫌、だった?」
「嫌って、何が?」
「手、繋ぐの。すごい気にしてるみたいだったし」
「い、嫌じゃないよ!」
自分でも驚くほど大きな声が出てしまった。
まずい、と腹の内が冷えた。幸いにも周りの通行人からは何とも思われていないようだが、綾乃から変な奴だと思われてしまう。
弁明の言葉を探して視線は宙を切り、触れ合う手に汗がじわりと滲む。
一度離してゴシゴシと汗を拭い、今度は自分から彼女の手を取る。
「触れ合うとオキシトシンっていう幸福ホルモンが出て、ストレスとか不安が軽減されるらしいから、これはすごく意味のあることだと……お、思うっ」
早口で何を言っているのだろうと自嘲しながらも、現状を維持する理由がこれ以外に考えつかなかった。しかし、より気持ち悪さが増したような気がして、じんわりと背筋を冷たいものが伝う。
「じゃあ藤村、今しあわせなんだ」
ぐいっと引っ張られ身体が傾いた。足は再び、目的地へと歩き始める。
「一緒だね」
無邪気に微笑むその横顔に、京介は再び瞳を伏した。
あまり見続けるのは、心臓に悪いから。
◆◇◆◇
昼食は手近なファストフード店で済ませ映画館に入った。
観る映画をその場で決めるといういつものスタイルで来てしまったことに後悔はあったものの、京介の気になっていた映画の席がかなり空いていて助かった。次からはしっかりと計画した上で来よう。
「飲み物とポップコーンは?」
「私はいいかな。さっき食べたばっかだし」
というのは半分嘘。
ここのところ、京介にご飯を振る舞うたびに自分もちゃんと食べているため若干太ってきた。自分が食べないと向こうも食べづらいだろうと気を使ってのことだが、流石に自重する必要がある。彼に太った姿を見せたくない。
「まだ時間あるし、ちょっと座ろっか」
開場まで十分ちょっと。どこかをぶらつくには心許ない待ち時間。
隅のソファに腰を下ろし息をつく。自分と彼の手は、繋がったまま。
こうしてカップルのように異性と歩くのは初めてだ。京介がどこからどう見ても女の子で、自分も王子様というテイのせいか、身体的接触にまったく抵抗がない。
細く、しなやかで。だが、どことなくゴツゴツしていて男性的。
見た目が変わっても、これは間違いなく彼の手だ。
「……っ」
きゅっと口元を結び、手を離して汗を拭いた。
ダメだ。深く考えると胸の内がむず痒くなる。チリチリと焼け焦げ、彼を直視できなくなる。
帽子を深くかぶって目元を隠し、一つ小さく深呼吸。
休ませていた手の上に、彼の手のひらが重なった。視線を落とすと、漆黒の瞳は遠慮がちに伏して、しかしその指はこちらの触れようとやや強引に動く。
落ち着け、落ち着け、と。
体内を駆け巡る血とはまた違う赤い何かに語り掛け、肺の空気をゆっくりと抜いた。
彼に特別な意図はない。
女装をして外に出て不安なだけ。自分に助けを求めているだけ。それだけのこと。
下手な勘違いをしないよう用心しながら、その手を握り返す。
彼の気恥ずかしそうな微笑みに、心臓は痛いほど脈打った。
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