第22話 ご飯食べてく?
時刻は午後六時に差し掛かり、窓の外が夕暮れの曖昧な光で満ち始めた。
そろそろ帰宅しなければいけないが、綾乃は全教科に何かしら問題を抱えているため、とてもじゃないが一段落着つく気配が見えない。理系科目に関しては、中学の範囲から見直す必要がある。続きは明日、と言いたいところだが、この調子でテスト当日に間に合うかどうか。
「そ、そんなに私ってやばい?」
「やばいってことを自覚できてない時点でかなりやばい」
「……そんなにかなぁ」
釈然としない面持ちの綾乃に、京介は小さく嘆息を漏らす。
「基礎がガタガタだから、固め直さないと。今回は乗り切れても、またすぐに期末テストがあるんだぞ」
「……悪い点取ったら、夏休みに補習とか呼ばれるのかな」
「わからないけど、たぶんあるんじゃないか」
「ええー、やだっ! 八月全部、藤村を連れ回す予定なのに!」
「……僕の夏を勝手に決めないでくれ」
しかし、これ以上長居をするのは難しい。まだ渡すべきものも渡していない。
どうしたものか、と綾乃を見据えた。視線の意図を汲み取ったのか、「それなら」と彼女は言った。
「うちでご飯食べてく? もっと教えてくれたら、私も助かるし」
その提案は願ってもないものだった。
家に連絡すると、特に問題ないとのこと。それを聞いた綾乃は、「やった」と零して小さくガッツポーズを決めた。……どうやら勉強に目覚めたらしい。流石に危機感を覚えたのだろう。
「じゃあ、パパッと作っちゃうね」
「何か手伝うことあるか?」
「大丈夫だよ。適当にくつろいでて」
急ぎ足でキッチンに向かった綾乃は、胸元に垂らした三つ編みを背中に回し、慣れた手つきでエプロンを着けた。そして手を洗い、早速調理に取り掛かる。
京介はテレビを点け、適当なニュース番組を見ていた。
……しかし、当然気になる。綾乃の様子が。
ガッツリと観察するのは気が引けるため、チラチラと十秒に一回程度のペースで視線を流す。
機嫌よく鼻歌混じりに食材を切る綾乃は、今までにない不思議な魅力を纏っていた。
少し楽しそうな、それでいて真面目な面持ち。すっと細めたネイビーの瞳、緩む春色の唇。不意に目が合うと、「見ないでよー」と気恥ずかしそうに笑う。
(……何か、いいなぁ)
所帯を持つ気分をほんのわずかだが体験し、京介の語彙力では表現し切れない感情に微笑む。
やばいやばい、と顔を両手で擦った。今、もの凄く気持ち悪い顔をしていたような気がする。
手作り菓子や家庭科の実習を除いて、親族以外からちゃんとした食事を作って貰うのは初めてだ。綾乃と付き合いたいとか、ましてその先に進みたいとか、そういった願望は一切ないが色々と想像してしまう。
「ごめん。聞き忘れてたけど、食べられないものとかある?」
「特にアレルギーはないな」
「じゃあ、嫌いな食べ物は?」
「ない」
「おっ。偉いね藤村」
「バカにするな。子供じゃないんだぞ」
と言いつつ、本当はナスとオクラが苦手だった。
しかし、正直に答えて向こうに不都合があっては申し訳ない。最悪メニューを変更させることになる。その時は頑張って食べれば済む話なのだから、ここは黙っておこう。
「変なこと言ってもいい?」
「何だその前置き」
「私、誰かを部屋に招いて料理作るなんて初めてなんだけどさ」
「うん」と相槌を打って、十数秒経過。
一向に続きを話さないことが気になり綾乃を見る。何事も無かったように調理を進めていた彼女は、京介からの視線を察知するなり、
「な、何でもないよ」
「何でもないことないだろ」
「本当に何でもないから!」
「そこまで言われると流石に気になる」
隠すことないだろ、とややキツい目つきで訴えると、綾乃は観念したのか調理に向いていた意識を完全に置いた。そっと京介に目を向けて逸らし、また向けては逸らし、口は難しそうにひしゃげ頬は紅潮する。
「特別な意味は、ないん、だけど」
「あ、あぁ」
「旦那さんがいたら、こんな感じなのかなって……思っただけ、です」
タイミングよくチーンと電子レンジが鳴り、綾乃は逃げるように踵を返して調理に戻った。
まずいことを聞いたな、と深くソファに体重を預けて、京介は興味もない芸能人の不倫ネタに集中力の全てを注ぐ。そうでもしないと、顔を巡る熱に焼かれそうな気がした。
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