第21話 勉強会

 誕生日の朝は、いつも嫌な夢を見て目を覚ます。


「……」


 汗で湿った背中と乾いた口内の感触に、起床したことを半休止状態の頭で理解した。

 のそのそとベッドから出て、うんっと身体を伸ばす。


 どういう夢だったのかは既に記憶の彼方だが、目覚めが最悪なことは確かだ。

 しばらくぼーっと立ち尽くし、何の気なしにスマホを手に取った。通知が一件、昨日から今日になる瞬間に京介からメッセージが来ている。


【誕生日おめでとう】


 その一文に、少しだけ身体が浮き上がるような感覚を覚えた。

 ありがとう、は取っておこう。今日、直接顔を合わせる時まで。



 ◆◇◆◇



 その日の京介の足取りは重かった。

 綾乃にプレゼントを渡さなければならないということへの緊張もそうだが、今一番頭の中を占領しているのは深夜に送ったメッセージについてだ。


『誕生日おめでとうって、日付が変わる瞬間に言うといいぞ』


 という琥太郎の助言に従い、眠い目を擦りながら連絡した。

 だが、何の返事もない。既読が付いているのに。

 時間が時間だ。疲れて帰って来て、ようやく休めたのに通知音で起こされ、苛立っているかもしれない。ふざけんなくそチビ、とか思われているかもしれない。


(東條に従っちゃダメだろ……)


 沙夜はあの男の気遣いという名の押し付けに何度も怒っている。状況を鑑みれば、参考にすべき男ではない。

 だが、あの自信満々の顔と迫力で言われると、陰キャの血が従え抗うなと背中を押す。何よりも、自分の周りに頼れる同性が彼しかいない。


「ふーじっむら!」


 学校の校門が見えてきたところで、ドンッと両肩に衝撃がのしかかった。

 振り返らずとも、それが誰かはわかる。横目に映った綾乃は、長く艶やかな漆黒の髪を珍しく三つ編みにして胸元に垂らしていた。ふわりと甘い香りが鼻腔をくすぐり、恥ずかしいような嬉しいような感覚に頬を焼く。


「おはよう。わざわざ夜に、ありがとね」

「……あ、あぁ、うん」


 横を歩き出した彼女の青い瞳がぱちりと瞬いた。あのメッセージについて鬱陶しがられていなかったことに安心し、京介はいつもの数割増しでキョドりながら返答する。


「私の方が一個お姉さんだね」

「まあ、そうだな」

「お姉ちゃんって呼んでみて」

「何でだよ」

「私、今日誕生日だけど?」


 本日の主役です、と言いたげに鼻息を漏らして、京介に期待の眼差しを送った。

 京介は小さく嘆息して、「お姉ちゃん」と小鳥が鳴くような声量で返した。こんなものでも嬉しいらしく、綾乃はよしっと小さくガッツポーズを作る。


(そんなにはしゃぐもんか、誕生日って)


 やれやれと内心肩をすくめながらも、自然と口元が緩むのを感じた。彼女のこういう子供っぽい性格は嫌いではない。


「ねえ、藤村」

「ん?」

「ふふふーっ」

「いや何だよ」

「呼んだだけ」


 とんっと肘で小突いて、綾乃はにまにまと笑う。

 それがプレゼントの催促だとわからないほど、京介は鈍感ではなかった。


(こっちにも心の準備ってものがあるんだから……)


 苦々しい表情で地面を見つめた。

 今ここで渡してしまうのが一番手っ取り早いが、こうも周りに人がいる状態では難しい。教室でも妙なことをすれば無駄に目立ってしまう。


「今日、学校終わったあと暇してる?」

「特に予定はないけど」

「じゃあうちおいでよ。一緒に勉強しよ」


 「映画でも流しながら」という一言に、勉強などまるでする気のない強固な意思がそびえ立っていた。

 テスト前の勉強会でまともに勉強をした試しがない。中学の頃に何度かやったが、最終的にはスマブラ大会かマリカー大会になるのが常だった。


 しかし、これは好都合。

 綾乃の部屋なら他に誰の目もない。彼女もそういう意図で誘ったのだろう。


 京介は彼女を横目に、「ああ」と頷いた。






 カリカリ……。

 カリ、カリカリ……。


 部屋に響く、シャーペンの芯とノートの表面が擦れる音。時計の長針がカチカチと歩き、キッチンの蛇口から時折ぽちゃんと水滴が落ちる。

 カーペットの上でぺたん座りし、テーブルに教材を広げる綾乃。京介はソファに腰かけて、見下ろすようにその様子を見守る。


「ねえ、藤村」

「どうした?」

「ちょっと休憩に――」

「そこ終わったらな」


 放課後。

 京介は勉強会のため、綾乃の家に足を踏み入れた。

 勉強道具を取り出し、適当な映画を流し、ジャスミン茶に舌鼓を打ち。案の定、意識が真っすぐ勉強に向くことはなく、映画と雑談ばかりで時間が過ぎてゆく。


 そんな中、ふと綾乃の進捗状況を覗き見た。

 数学の問題集は、酷い有様だった。あまり進んでいないのは仕方のないことだが、パッと目を通しただけでも間違いだらけ。視線に気が付き、恥ずかしそうにサッと隠したことから、何もわかっていないことが読み取れる。


 京介はすぐさまテレビを消し、綾乃のテスト対策に取り掛かった。

 他人に褒められるほど優秀ではないが、このまま見過ごすほど薄情にはなれない。


「そこ、ちょっと違う」

「え、どこ?」


 間違っているところを指すと、綾乃は誤魔化すように笑って消しゴムを動かした。


「別にバカなわけじゃないんだよ」

「ああ」

「最近、仕事が忙しくって」

「そうか」

「慣れないことも多くてさ」

「うん」

「それで、ちょっとわからないところが多いっていうか……」


 シャーペンを動かす手が止まっていた。

 唇を軽く噛み、問題集の印字に対し何度もまばたきをする。


「……何か勘違いしてるみたいだけど、僕は呆れてるわけじゃないんだぞ」


 綾乃が妙に挙動不審な理由はそこだろう。

 同級生に勉強を教わると、お前は授業をまともに受けていないバカだと言われているような気分になる。京介にもそういう経験があった。


「本当……?」


 機嫌をうかがうような上目遣い。水の膜が張ったような瞳は、不安げに輝き揺れ動く。


「仕事を頑張ってるのはすごいし、それはクラスの誰にも真似できないことだし」

「そ、そうかな」

「ああ、すごい。佐々川さんは、僕が知ってる誰よりすごいよ」

「へ、へえ……」

「だから、勉強が疎かになるのは仕方ないだろ。何でもできる人なんかいないって」


 というのは、理由の四割に過ぎない。


 何かと目立つ彼女がテストで際立って悪い点を取れば、またそれをネタに陰口を叩く奴が出る。

 それはきっと、綾乃の耳に直接届くことではないし、京介が知ることでもないかも知れないが、頑張っている彼女が学校のテスト如きで貶されるのは我慢ならない。


 悪くない点を取っても叩かれるとは思うが、それは欠点の指摘ではなくただのやっかみだ。

 どうせ陰口言われるくらいなら、前者より後者の方がマシだろう。……あくまでも、京介の自己満足でしかないが。


「たまには僕も、頼りがいのある奴になりたいんだ。満点取らせる自信はないけど、赤点は回避させられると思うからさ」


 勉強ができないことを非難する意思はないのだと落ち着いた声音で話すと、綾乃は納得したのか、少し誇らしげな面持ちでコクリと頷いた。

 本音を言うと、単純な奴だなと思ってしまった。しかし、そういうところが長所でもある。自分には決して真似できない。


「これ終わったら、誕生日プレゼントくれる?」

「……」

「すごいの、何だよね」


 期待満点の煌めく双眸に、京介はうっと気圧された。


「……そ、そうだな」


 京介は綾乃から目いっぱい視線を逸らしながら、苦々しい笑みを作った。



 ◆◇◆◇



 京介には仕事が忙しいからだと言い訳を並べたが、元より勉強は得意ではない。


 中学の頃はよく赤点ギリギリを低空飛行していたし、頑張って勉強してもクラスで真ん中になるのが精いっぱいだった。今の高校は家から近いからという理由で選んだが、一夜漬けをした上で何とか合格している。


 今まで何度か同級生に勉強を教わる機会はあったが、その数だけこんなこともわからないのかという視線を向けられた。普段目立っている分、こういうところで露骨に見下されるのは仕方ないと理解はしているが、あまり愉快なものではない。わからないと口にすることが、怖くなってしまう。


 だが、京介は違った。


 わからない素振りをしたら察してくれるし、教えて貰った上でわからないと、「僕の言い方が悪かった」と自分を非難し始める始末だ。もっとこっちをバカにしてくれていいのに、と申し訳なくなるほどに、彼はわからないことに対し寛容だった。


「藤村、先生になったらいいのに」

「……僕に一番向いてない職だろ、それ」

「何で? こんな丁寧に教えてくれるし向いてるよ」

「他人と話すの得意じゃないし……それに、絶対先生扱いされないし……」


 悪いと思いながらも、クスッと黄色い吐息が漏れた。

 スーツをビシッと決めて、背筋をピンと伸ばして、教壇に立つ京介を想像する。……うん、確かに先生扱いできないかもしれない。マスコット的な人気は出そうだが、舐められることは必至だ。


「佐々川さんは、高校卒業してもモデル続けるのか?」

「どうだろ。この仕事、別に好きなわけじゃないし」


 言葉選びがまずかったのだろう。

 ふと京介に視線を流すと、彼は引きつった笑みを浮かべていた。何か地雷を踏み抜いた、とでも思っているのだろう。違う、そういうことではない。


「へ、変な意味じゃないよ。ただ、スカウトされて何となく始めたから、未だに何となくで続けてるだけっていうか。普通に楽しいし、お金が貰えるのも嬉しいけど、ずっと続けるかって聞かれたらちょっと微妙でさ」


 続けている理由はそれだけではないが、わざわざ京介に話すようなことでもない。


「それに、ほら、目立っちゃうでしょ。こんな仕事してたら。それで中学の頃、結構嫌な目にも遭ってるし、いつか辞めるんだろうなとは思ってるけど……」


 問題なのは、辞めたあとが何一つ決まっていないことだ。

 容姿がいいことは自覚しているが、それ以外にこれといった取り柄がないこともわかっている。ケーキ屋さんになりたいとか、お姫様になりたいとか、そういう夢を掲げるような年齢でもない。


「よくわからないけど、いいんじゃないかな。佐々川さんなら、どこでも上手くやれるだろうし」

「無理だよ。私、頭良くないから」

「頭の良し悪しじゃなくってさ。佐々川さんは、僕のこと何度も褒めてくれてるし。他人を躊躇なく褒められる人って、たぶん大丈夫だと思う」


 当たり前のように言って、「あ、そこ違う」と会話の軸が勉強に戻った。

 ずるい。ずるい奴だ。そういう言われ方をしたら、在りもしない自信が湧いてきてしまう。朱色が溜まった頬を掻いて、「ここは――」と問題集をさす彼の手を見つめる。


 わずか数センチ。身じろぎすれば容易く触れられるこの隙間が、熱い。

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